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島根県立大(浜田市)は9日、学園祭(7日)で予定していた「男装女装コンテスト」を、性同一性障害当事者の支援団体代表から抗議を受けて中止した、と発表した。同大の本田雄一学長は「教育指導をするべき立場の大学が、看過していた事は誠に遺憾。」とのコメントを出した。
男装や女装をした出演者のファッションを観客が審査するコンテストは、学生で作る実行委員会が企画し、2008年の学園祭から毎年続けていた。
開催を知った支援団体、紫の風(松江市)の上田地優(ちひろ)代表が開催前日の6日、「心と身体の性が一致しない人を蔑視している。」と指摘。実行委が開催を中止した。
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「島根県立大学で『男装女装コンテスト』が中止 性同一性障害者への差別と偏見が広がるから?」(10月9日、J-CASTニュース)
島根県立大学の学園祭で毎年行われて来たイヴェント「男装女装コンテスト」が、開催日の前日に行き成り中止になった。「生物学的な性」と「心の性」が一致しない「性同一性障害」支援団体に抗議された事が切っ掛けだった。
大学側は「此のイヴェントは、性同一性障害に対する理解と配慮が足りなかった。」と認めたが、ネットでは「支援団体の反応が、過剰過ぎるのではないか?」といった疑問も出ている。
島根県立大学の説明によれば、此の「男装女装コンテスト」は2008年から毎年開催していた。此のイヴェントに関する批判の様な物は此れ迄無かったが、2012年10月6日に性同一性障害支援団体から、学生の学園祭実行委員会宛てに電話が入った。担当の学生が不在だった為、電話は大学職員の下に転送され、意見を聞く事になったのだと言う。
人権団体はイヴェントに関して、性同一性障害に付いて充分な理解をした上で行っている物かどうかを訊ねた。大学側はイヴェントに付いて、学生達が学園祭を盛り上げる目的で行っている物だと説明。学生達が性同一性障害に付いて充分な理解をしているのかどうか、していなかった場合に周知徹底するとしても、学園祭は翌日の7日と8日に迫っている為、時間的にも難しいと判断し、学園祭実行委員会と話し合い急遽中止を決めた。
「充分な理解と配慮が無かったと思っています。此れからはこうした事が無い様に努めて行きますが、コンテストを復活させるかどうかは判りません。」と話している。
今回の経過は支援団体の公式ホームページでも紹介されていて、2012年10月6日付けの記事では、此のコンテストは集客を目的とした物で、性同一性障害者への配慮は当初から念頭に無かった事が判った、障害を抱えている人達が偏見と差別に晒される恐れが在ると判断して、口頭で開催の中止を要請した、と書いている。
8日付けの記事では、イヴェントが中止になった事に付いて、「学長以下、配慮に欠けていた、という事で中止の方向に傾いたと言う。」と説明している。そして此の団体にも何等かの「批判」が在ったのだろうか、「抗議を向ける矛先が違う。イヴェントをするか、しないかは主催者と大学当局が最終的に決める事。」等と結んでいる。
ネットでも、今回の「事件」は話題になっている。掲示板や「ツイッター」を見ると、支援団体の行動に首を傾げる人が多い。「学生のコスプレで、性同一性障害を連想する人って居る?」、「支援団体の過剰反応が、逆に反発を招く恐れが在る。性同一性障害者を、追い詰める切っ掛けにならなければ良いが。」等といった意見が出ている。
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「性同一性障害」は上記されている様に「心と身体の性が一致しない症状」を指し、「同性愛」や「異性装」等とは異なる。(其の違いは、此方を参照の事。)だが、一般的には未だ、混同している人が結構居るのかもしれない。
「性同一性障害」では無く、「同性愛」や「異性装」に付いて言えば、嘗てはそういった人達に対する差別や偏見というのは、非常に強かったと思う。しかし、そういった人達がマスメディアにどんどん登場した事で、差別や偏見の意識は減じられて行った気がする。当事者では無いからこそ、そう感じるだけで在って、実際には違うのかもしれないが、少なくとも一般的な感覚としては、そんな感じではないだろうか?
学園祭のイヴェントなんて、抑「集客を目的としていない物」なんて無いだろう。集客力が在るからこそ、島根県立大学では此のコンテストを過去4年間ずっと続けて来たのだろうし。
「差別される側の人々」と「差別される側には属さない人々」には、当然「温度差」が在る。「差別される側には属さない人々」にとっては全く悪意の意識が無い言動でも、「差別される側の人々」にとっては心や身体を傷付けられるケースも在る事だろう。
「男装女装コンテスト」、男装や女装した人間を見て大笑いする事も在る一方で、「おー、美しい!」と羨望の目で見るケースだって在る筈。「『美しい。』と思う気持ち自体が、既に『美醜』という差別基準なのだ。」と言われてしまえば返す言葉も無いけれど、個人的には「男装女装コンテスト」自体が必ずしも差別や偏見を助長するとは感じない。上記の様に「学生のコスプレで、性同一性障害を連想する人って居る?」という思いが在るし、「支援団体の過剰反応が、逆に反発を招く恐れが在る。性同一性障害者を、追い詰める切っ掛けにならなければ良いが。」という懸念も、其の通りだと思う。
性同一性障害の人達の中には、今回のコンテストに付いて不快感を持っている方も居られるだろう。でも、何とも思っていなかったり、「何で批判されるのだろうか?」と疑問を感じている人も居るのではないだろうか?一時期問題となった「ちびくろサンボ問題」と、今回の話は似た部分が在る様にも感じている。
何でも彼んでも「差別だ!」、「偏見だ!」と批判し、“表舞台”から消し去って行く事が、果たして良い事なのだろうか?真に差別的だったり、偏見を助長する事柄は別だが、そうで無ければ却って“大きな差別”(逆差別や新たな差別)を生み出してしまう気がする。
其処で、皆様にズバリ聞きます!「今回の『男装女装コンテスト』の中止に付いて、貴方はどう思われますか?」非常にセンシティヴなテーマ故、呉々も差別的な表現等は避け、冷静な書き込みを心掛けて戴きたい。
子供達もかなり!大きくなりました(体も態度も・・・笑)
きっとびっくりされると思います。
さて、今回のテーマですが。難しいですね。
私の友人、親類に性同一性障害の者がおります。彼らは、周りの目を気にせず自分の希望するようにふるまっています。私も子供達も、もちろん彼らの周りの友人達も、差別的な目で見たことは一度もありません。
なので、難しいけれど、「行動に悪意を持てば差別」になるのではないでしょうか?コンテストを見に来られるお客様の中には、もちろん性同一性障害の方もいらっしゃるでしょう。そういう方々に対して出場者、主催者があざけるような気持ちを持ってのぞんでいたとしたら、それは「差別」になる。でも、全く考えたこともなかったとしたら、それを「差別だ!偏見だ!」とあえて騒ぎ立てる方が「差別」なんではないでしょうか?
これは、私の個人的な意見なので、もちろん反対の方もいらっしゃると思います。
ただ、差別というメガネを持っていなかった人に、わざわざ差別というメガネを渡すことはないのではないかな?と。すみません。文章意味不明ですね。
ブログの方は更新相変わらずまったりですが、どうぞよろしくお願いします。
10月に入って、本当にようやく!といった感じで秋らしくなってきました。体調も崩しやすいので、くれぐれもお体お気をつけてくださいね。
野田首相、野田内閣は何をやっているのか。
反日デモのときから日中関係が悪化してる感が
否めませんよね。
女装コンテストと、いうイベント自体
興味がないというか別にしなくても良いと思うのですが。
いまや、性同一性障害の問題は
尖閣諸島の問題より深刻な感じになってきていますよね。よく、大学の学園祭のイベントって奇抜なこと
物珍しいことやりますよね。
でも、島根県立大学のこの女装イベントの場合
大半がドン引きするような、大半がしらける
イベントと、とらわれても仕方がない感じがします。
差別問題というのは、非常に難しい問題だと思っています。以前にも書いた事ですが、例えば「盲(めくら)」という言葉は差別的表現という事で、公の場では使われなくなっている。其の代わりに使われるのが「目の不自由な人」という言葉。当事者の中には「盲」という言葉に抵抗を覚える人も居るだろうし、其れならば使うべきでは無いのかもしれないけれど、“個人的には”態々「目の不自由な人」と言い換える方が、“差別意識”を感じたりする事も在る。syuu様も書かれている様に、言葉を発した人の“真の気持ち”は他者から窺い知れない訳で、何れだけ丁寧な言い方をしても、心の中に物凄い悪意を抱えている人も居れば、無意識の内に差別的な言葉を使っていても、差別意識が全く無い人も居る。だから、余りに“表面に出ている部分”だけを叩いてしまうと、却って差別意識を助長してしまうケースも在るのではないかと懸念してしまうのです。
「3年B組金八先生」で、上戸彩さんが性同一性障害者を演じていましたが、其れによって性同一性障害に対する一般的な認知度は高まったと思うし、差別意識も減じられたのではないかという気がしています。勿論、当事者からすれば「未だ未だ差別は在る。」という思いは在りましょうが、少しづつでも減って行けば良いなと。其の存在を公にする事はメリットとデメリット双方在ると思いますが、個人的には公にして行く方が、将来的には差別を減じられて行く様に感じます。
迷走し捲っている民主党に肩入れする気は毛頭無いのですが、唯、「原発問題」にしても「領土問題(尖閣諸島、北方領土、竹島。)」にしても、自民党政権下で推進&放置され続けて来た事柄で在り、其れを反省する事無く、わあわあと非難する“だけ”の自民党の姿勢には違和感を覚えています。
尖閣諸島の買い取りの話が出始めた頃、自分は「国が買い取るのは賛成だけれど、血税を投入する以上は、飽く迄も“妥当な価格”で購入すべき。常識外の高値で購入するのは駄目。」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/1db6deba4d7f091a1046b7dad821b905)と書きました。申し訳無いけれど石原都知事、そして所有者に対して疑問を感じる所も在ったので。
結果として、「常識外の高値」で購入した感が在り、其れは其れでどうなのかなあという思いが。国防は大事な事だけれど、今回の件で「此れは美味しい話。」と“無人島”を買い求めようとする連中が現れているという話も在りますので。
同性愛、性同一性障害、性分化疾患、異性装趣味など、セクシャルマイノリティの主な受け入れ先であった夜の世界や芸能界で、それぞれのカルチャーを相互に取り入れて形成されていった新たなカルチャーのみが世間には見え、その結果、世間から各種のセクシャルマイノリティは混同されがちになってしまったのではないかと、私としては推測しています。
また、セクシャルマイノリティに限らず、メディアが取り上げる様々なジャンルについて、「ありのままを伝えることが大切である」とする立場と、「たとえ妄想捏造や名誉毀損があっても、面白くてヒットすれば良い」とする立場の二通りがあります。そして、最初は後者でも、前者に考えを変じる人が多くいる一方で、前者になりたくとも消費者動向がそれを許さないというのもあるかと思います。そしてこの2通りの立場はマジョリティだけでなく当事者の中にもあるでしょう。そういう現状に忸怩たる思いを抱いている当事者が物申したくなるというのはわからなくはない。
しかし、今回の団体の反応は過剰反応ではないかと。学園祭の場では、日ごろから磨いたマニッシュもしくはフェミニンなセンスを披露したい人もいれば、ブラジルのカーニバルのように年に一度のはっちゃけをする人もいるでしょう。「学生のコスプレで、性同一性障害を連想する人っている?」、「支援団体の過剰反応が逆に反発を招く恐れがある。性同一性障害者を追い詰めるきっかけにならなければ良いが。」といった意見に私も同感です。
自分が子供の頃、「小人プロレス」と称される見世物が在りました。TV番組でも普通に選手達が登場したりしていたのですが、或る時期から「身体障害者を馬鹿にしている。」という批判が上がり、彼等をTV番組で見る機会は無くなりました。
「見世物」と敢えて書きましたが、彼等を見て嘲笑する人も居る事でしょう。其れは事実だと思います。又、そういう見世物を不快に思う身体障碍者の人達も居る事は、自分も認識しています。しかし、小人プロレスラーとして活躍していた人達のインタヴューを以前読みましたが、「障害を持っていても戦えるという事を皆に知って欲しかったし、何よりも生活の糧を奪われてしまったのが辛かった。」と。
最近、NHKでは障害をテーマとし、障害者達が登場するヴァラエティー番組が注目を集めています。そういう番組自体を疎ましく思われる障害者の人々も居るでしょうが、「こういう形で“自然に”TV番組に登場する事で、普通に接してくれる人が増えるのは嬉しい。」と考える障害者の人々も居るのではないでしょうか。
マイノリティーで在る事を“錦の御旗”にして、妙な利権を求める連中は論外ですが、そうで無かったとしても、過剰反応する事で却って「差別」を生み出してしまう事に、自分は懸念を覚えます。