「足りない所や弱い所を補ったり強くしたりする事。」というのが本来の意味なので、今オフのジャイアンツが遮二無二行っている「他チームからの戦力掻き集め」が果たして本当に「補強」なのかは疑問を感じ続けている。生え抜き選手達のやる気を削ぐだけで、結果的に戦力アップには成り得ない様に思うが、兎にも角にもジャイアンツが大補強に走っているのは事実だ。過去にも何度か大型の補強を行って来たジャイアンツ。中でも1975年オフの大型補強が、個人的には強く印象に残っている。
1975年、長嶋茂雄監督率いるジャイアンツは最下位に沈んだ。長嶋采配にも問題は在ったろうが、”V9戦士”の高齢化というのも大きかった様に思う。チーム創設以来初の最下位」という不名誉な現実を前にしてジャイアンツは”血の入れ替え”を決断。中でも2つの大型トレードが行われた。1つは左のエース・高橋一三投手と”法大三羽烏”の一人・富田勝選手を交換要員として、ファイターズから”安打製造機”こと張本勲選手の獲得。そしてもう1つは関本四十四投手及び玉井信博投手を交換要員として、太平洋クラブライオンズから加藤初投手及び伊原春樹選手の獲得。
”鉄仮面”と評される程のポーカー・フェイスで黙々と投球する加藤投手は、正に”仕事人”という雰囲気が漂う自分好みの選手だった。そんな彼が東京スポーツで、「加藤初 鉄仮面の告白!」という連載を開始した。連載初回(8日付け)は1975年オフのトレード通告に関して語られているのだが、当初ジャイアンツがトレードを申し入れたのは加藤選手では無く、その年に23勝15敗(防御率2.38)で最多勝に輝いた”トンビ”こと東尾修投手だったというのだ。ジャイアンツからの交換要員が見合わず、結果的に御破算になったとか。「もしあの時トンビが巨人に移籍し、私がライオンズに残っていたら、御互い違う人生を歩んでいた事だろう。」と加藤氏は振り返っているが、これは興味深い”if”だと思う。
加藤氏が記している内容で他に気になるのが、東尾投手の獲得をジャイアンツが画策した際、交換要員として「エース級の某投手や俊足で知られる某外野手」を用意していたという点。後者の「俊足で知られる某外野手」は”赤い手袋”の柴田勲選手で間違い無いと思うが、「エース級の某投手」とは一体誰なのか?
この年にジャイアンツに在籍していた選手達の顔触れを見てパッと目に留まるのは”悪太郎”こと堀内恒夫投手だが、この年「10勝18敗」と負け星が勝ち星を上回ったとはいえ、彼は未だ”エース”で在り”エース級”と呼ばれる存在では無かったろう。「1勝3敗」の高橋良昌投手や「2勝11敗」の新浦壽夫投手でも無いだろうし、ルーキーで一軍登板の経験が無かった定岡正二投手で在る筈も無い。
消去法で行くと、「5勝6敗」の小林繁投手の可能性が高いのではないか。この3年後、彼が江川卓投手と交換でタイガースにトレードされた事を考え合わせるとその思いは更に強くなるのだが、はてさて真相は如何に。
1975年、長嶋茂雄監督率いるジャイアンツは最下位に沈んだ。長嶋采配にも問題は在ったろうが、”V9戦士”の高齢化というのも大きかった様に思う。チーム創設以来初の最下位」という不名誉な現実を前にしてジャイアンツは”血の入れ替え”を決断。中でも2つの大型トレードが行われた。1つは左のエース・高橋一三投手と”法大三羽烏”の一人・富田勝選手を交換要員として、ファイターズから”安打製造機”こと張本勲選手の獲得。そしてもう1つは関本四十四投手及び玉井信博投手を交換要員として、太平洋クラブライオンズから加藤初投手及び伊原春樹選手の獲得。
”鉄仮面”と評される程のポーカー・フェイスで黙々と投球する加藤投手は、正に”仕事人”という雰囲気が漂う自分好みの選手だった。そんな彼が東京スポーツで、「加藤初 鉄仮面の告白!」という連載を開始した。連載初回(8日付け)は1975年オフのトレード通告に関して語られているのだが、当初ジャイアンツがトレードを申し入れたのは加藤選手では無く、その年に23勝15敗(防御率2.38)で最多勝に輝いた”トンビ”こと東尾修投手だったというのだ。ジャイアンツからの交換要員が見合わず、結果的に御破算になったとか。「もしあの時トンビが巨人に移籍し、私がライオンズに残っていたら、御互い違う人生を歩んでいた事だろう。」と加藤氏は振り返っているが、これは興味深い”if”だと思う。
加藤氏が記している内容で他に気になるのが、東尾投手の獲得をジャイアンツが画策した際、交換要員として「エース級の某投手や俊足で知られる某外野手」を用意していたという点。後者の「俊足で知られる某外野手」は”赤い手袋”の柴田勲選手で間違い無いと思うが、「エース級の某投手」とは一体誰なのか?
この年にジャイアンツに在籍していた選手達の顔触れを見てパッと目に留まるのは”悪太郎”こと堀内恒夫投手だが、この年「10勝18敗」と負け星が勝ち星を上回ったとはいえ、彼は未だ”エース”で在り”エース級”と呼ばれる存在では無かったろう。「1勝3敗」の高橋良昌投手や「2勝11敗」の新浦壽夫投手でも無いだろうし、ルーキーで一軍登板の経験が無かった定岡正二投手で在る筈も無い。
消去法で行くと、「5勝6敗」の小林繁投手の可能性が高いのではないか。この3年後、彼が江川卓投手と交換でタイガースにトレードされた事を考え合わせるとその思いは更に強くなるのだが、はてさて真相は如何に。
巨人にとっていいトレードでした。
この当時は有名選手を採って
成功していたので、
そこから考え方が脱却できないのかも・・。
さてエース級投手ですが
私も考えに同意します。
ただしもし堀内だったとしても
ズバリ「エース」とは書けないでしょう。
(ほぼ当たりだから)
「エース」も「エース級」の一人という解釈で。
6年前に大阪に出かけ、その帰りに神戸市内から港までタクシーに乗りました。その際に
「松山行きフェリーの乗り場まで。」
と言うと、運転手さんが
「お客さん、松山の方ですか?私の妹のダンナが松山出身なんですよ。」
と話し掛けて来ました。なんと、運転手さんの義弟は、松山商業出身の玉井さんのことだったのです。
「妹の結婚を機に、西宮球場の三塁側のチケットをいつも貰ってましたからすっかりライオンズ・ファンになりましたよ。」
といった話から始まり、港に着くまでの車内は大いに盛上がったのでした。
通っているスポーツジムのマネージャーをしていた人が元ライオンズの選手(1963年生)で、この話をすると、
「玉井さん、僕らがいた頃は寮長さんでしたね。」
とのことでした。
小川邦和あたりが微妙にこの「エース級」に当たるのではないかな、と思います。
1975年度はまだ28歳(実働3年目)と若く、成長余地もあるように思えます。
実働1年目から3勝(0敗)、12勝(4敗)、8勝(10敗)とまずまずの成績を残しており、1973年から1975年の3年間で挙げた23勝は巨人では4位の勝利数です。
また、この3年間で登板した127試合のうち113試合が救援登板ですが、先発試合は1年目から0試合、5試合、9試合と徐々に増えてきています。
もちろん小林繁氏も選択肢にあったと感じます。
うまく着陸できるコメントではありませんが、この辺で。
小川邦和氏(彼は、純粋に自らの意志でメジャー挑戦した最初の日本人選手とも言われていますよね。)はすっかり頭から抜け落ちていましたが、記録を見ると確かに可能性は在りますね。と言うよりも、小林繁氏より可能性が高そうな気がして来ました。と言うのも、元記事を読む限り加藤(初)氏は交換要員となった2選手の名前を確実に知っていると思われ、事実片方の選手に関しては「俊足で知られる某外野手」と明らかに柴田勲氏だと判る書き方をしています。そう考えると堀内恒夫氏の場合には「チームのエース」、小林繁氏の場合には「その後にトレードに出されたエース級投手」といった書き方をするのではなかろうかと。実績は確実に残していたものの、キャッチフレーズの付け難いタイプの選手だったと思われる小川邦和氏だからこそ、ぼやかす意図では無く「エース級の某投手」”としか”記せなかったのかもという推測が出来そうですね。
今後とも何卒宜しく御願い致します。