ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

癌患者の介護

2013年02月27日 | 其の他

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「耳に蘇る夫の声 患者遺族240人の証言集」(2月25日付け東京新聞【夕刊】)

 

「心が潰れそうだった。」、「生きるって、死ぬって何?」、「夫の声が、何時も耳に蘇る。」。告知巡る葛藤闘病の様子、故人への思い・・・。癌で大切な人を亡くした約240人にアンケートして体験を纏め冊子を、遺族会「青空の会」(東京)が発行した。

 

1998年に次いで2冊目で、タイトルは「続 ガン患者を介護した家族の声」。患者と共に癌と闘った家族の証言集として注目される。

 

アンケートによると、主治医から最初に診断結果を伝えられた際の状況は「家族が聞いた。」42%に対し、「患者が1人で聞いた。」と「患者と家族同席。」が計57%。最近になる程、患者に説明が為される割合が増え、患者主体医療普及している事を窺わせた。

 

本人に告知しなかった事を巡り、葛藤を記した人も。夫=当時(44歳)=を亡くした40代女性は(本人に)知られない様、笑顔でいたら、『嬉しそうだな。何か良い事でも在ったのか?』と言われ、心が潰れそうになりました。。娘=(25歳)=を亡くした50代女性も「ずーっと嘘を吐いているのが、苦しみだった。」と振り返った。

 

苦痛を和らげ緩和ケアを患者が「受けた。」と答えた遺族の割合は、死亡時期別で1996~2000年の36%に対し、2006~2010年は48%に増加。一方、患者の痛みに直面する辛さ吐露した遺族も多かった。

 

「苦痛を何処遣って良いのか判らず、常に怒っていた様に思う。娘の私にだけ暴言吐いていた。悔しいのと、辛いのと、哀しいのが綯い交ぜになった。」(69歳母を亡くした30代女性)。「『生きるって、死ぬって何?』と、本人も私も考えていた。」(59歳妻を亡くした60代男性)。

 

死別の哀しみや喪失感も綴られた。妻=同(63歳)=を亡くした60代男性は「仕事面では充実していますが、休日等1人になると張り合いが無くなり、不安になります。此れから何の様な生活をすれば良いか、悩んでしまいます。」。

 

60代女性は、74歳で逝った夫に語り掛けた。「私を妻だと判らなくなっても、『有難う。』と言ってくれた、貴方の声が何時でも耳に蘇って来ます。貴方との御喋り、楽しかった彼の時間、電話が通じたら良いのにね。」。

 

夫=同(59歳)=を亡くして2年半が経つという50代女性は「毎朝、川のを歩き乍ら、夫が過ごした病院が見えて来ると胸が疼いた。」と死別当時を振り返った。

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母方の祖母は、癌で亡くなった。本人には最期告知をせず、恐らくは本人も癌で在る事を知らない天国召されて行ったと思う。癌の情報に触れる機会が少なく無い現在とは異なり、当時は意識して触れる機会を作らない限り、癌患者が癌の情報を詳しく知る事は、そう簡単では無かったから。

 

入院した祖母を、母や伯母達が交代で見舞った。丸山ワクチン始めとして、「癌に効く。」という話が在った物を、色々試してみたりもした。サルノコシカケ其の1つで、単独で飲ませると本人が疑心暗鬼になりそうだったので、紅茶に混ぜて飲ませるも、「苦くて、変な味がする。」と、以降は全く飲んでくれなかったそうだ。

 

最初は複数人の部屋に入院していたが、「余命が残り少ない。」と医師から判断された段階で、祖母は個室に移動。に癌細胞転移し、寝返りを打つどころか、薄いタオル地掛け布団が身体の上に掛けられただけで激痛が走る状況で、「痛い、痛い!」と七転八倒する祖母。日に日に痩せ衰えて行く祖母の姿を見るのが、母達には堪らない事だったと言う。

 

祖母の容態がまあまあ良かった或る日、見舞いに行った母と伯母。個室に入って祖母と顔を合わせるも、余りにも痩せ衰えた祖母の姿に動揺してしまい、「沈黙のが出来てしまうと、不安で押し潰されてしまう。」と思い、御互いに取るに足りない話をぺちゃくちゃと話し続けた。そんな母達を見て祖母は、薄らと笑顔を浮かべ、「貴方達は、良く喋るねえ。」と言ったのだとか。

 

「(本人に)知られない様、笑顔でいたら、『嬉しそうだな。何か良い事でも在ったのか?』と言われ、心が潰れそうになりました。」という証言を上記したけれど、「自分が癌で在る事を知らない儘、死を迎えようとしている祖母から『貴方達は、良く喋るねえ。』と言われた事に、『騙している様な罪悪感』と『祖母への憐れみの思い』等が綯い交ぜとなり、母も伯母も心が潰れそうになった。」そうで、病室を出てから涙が止まらなかったと。


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4 コメント

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Unknown (透明人間)
2013-02-28 08:42:10
日赤に入院した時に医者が言った言葉で一番心に残ったのは「どんなに癌予防に気を使った生活(食生活含む)をしても産まれた時の遺伝子の運命には逆らえない」と言われた事です
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>透明人間様 (giants-55)
2013-02-28 10:55:20
書き込み有難う御座いました。

確かにそうなのでしょうね。でも、そう言われてしまうと、身も蓋も無い気も。

此処数日、40代の声優(女性)が相次いで癌にて亡くなられました。高齢者だけが罹患する病気で無いのは判っていても、此の若さで亡くなられるというのは、所謂“癌家系”の人間としてはショックです。
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Unknown (ぷりな)
2013-02-28 18:08:23
本人への告知は難しい問題ですね。その人の年齢、家族の有無、ライフスタイル等も考慮に入れる必要もあるかと思います。

元ダイエーホークスの投手で2000年に肺がんにより亡くなった藤井将雄投手の場合、本人には肺がんではなく間質性肺炎という病名を伝えていたそうです。間質性肺炎は国の特定疾患で、進行性の場合は数週間で死亡することもあるが、慢性の場合は10年以上生存することも多い病気であり、「癌と伝えないことによって、希望を失わずに闘病できるのではないか」というご家族の意向により、偽の病名が本人には告げられたとのことです。最初の訃報でもこの偽の病名が死因として報じられました(ご家族以外で真の病名を知っていたのは、球団の中でもごく限られた方々だったためと思われます)。


現在も残されている藤井投手のウェブサイトでは、入院中に書かれた日記が載っており、ペナントレースを戦うチームメイトへの激励、一時退院した時の仲間との楽しいひととき、家族や医療関係者への感謝などが綴られています。日記の日付が新しくなるにつれて、読んでいる側としては、まるで満月を見るような穏やかさ、清々しさを彼の文章に感じます。この穏やかさや清々しさは、藤井投手が「自分は早期に死亡するタイプの間質性肺炎なのだ」と覚悟を定めたからなのかもしれませんが、もしかすると、本人は自分が癌であることを気づいていたものの、自分に対する周囲の配慮をくみ取って、気づいていないふりを貫き通したのかもしれないとも思いました。実際の心境は本人にしかわかりませんが、そのように感じるくらい、彼の文章には暖かさや気高さを感じました。
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>ぷりな様 (giants-55)
2013-02-28 18:48:01
書き込み有難う御座いました。

病気の告知、其れも重い病気の告知を本人にするかどうかは、極めて難しい事だと自分も思います。「実に肝が据わった人で、どんな困難さえも平気の平左で乗り越えてしまうだろう。」と目されていた人が居ます。ところが体の到る所に不調を感じ始め、病院に何度も通い出した頃から、彼は考えられない様な落ち込み方を見せる様になりました。結局は何でも無かったのですが、「人は見掛けによらないものだなあ。癌告知されても前向きに治療出来そうな人と思っていたけれど、彼じゃあ癌告知なんか絶対に出来ない。」というのが、以降の我々、そして彼の細君の思いとなりました。

本当に難しい問題です。
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