こういう報道に触れると、不快感のみが湧き上がって来る。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で死刑が確定した宮崎勤死刑囚(43歳)が、月刊誌「創」の編集部に手紙を寄せ、その中で「死刑は絞首刑を止めて薬を使用すべきだ。法律も残虐な刑罰を禁じている。絞首刑を執行される時は恐怖と闘わねばならず、反省の事等考えなくなる。薬を使用すれば、反省や謝罪の言葉を述べる確率も断然高い。」と主張しているのだそうだ。
死刑制度には賛否両論在る。どっちの立場を採ろうがそれは個人の自由だし、薬を使用する事で、反省や謝罪を口にする可能性が高くなるのかもしれない。しかし市井の人なら未だしも、4人もの人、それも幼女を惨殺した輩が、死刑の手段が残酷だ云々を主張する資格は無いと言いたい。4人がどれだけ恐怖の内に生を終えなければならなかったかを思うと、彼の発言は身勝手極まりないとしか思えない。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件で死刑が確定した宮崎勤死刑囚(43歳)が、月刊誌「創」の編集部に手紙を寄せ、その中で「死刑は絞首刑を止めて薬を使用すべきだ。法律も残虐な刑罰を禁じている。絞首刑を執行される時は恐怖と闘わねばならず、反省の事等考えなくなる。薬を使用すれば、反省や謝罪の言葉を述べる確率も断然高い。」と主張しているのだそうだ。
死刑制度には賛否両論在る。どっちの立場を採ろうがそれは個人の自由だし、薬を使用する事で、反省や謝罪を口にする可能性が高くなるのかもしれない。しかし市井の人なら未だしも、4人もの人、それも幼女を惨殺した輩が、死刑の手段が残酷だ云々を主張する資格は無いと言いたい。4人がどれだけ恐怖の内に生を終えなければならなかったかを思うと、彼の発言は身勝手極まりないとしか思えない。
村上世彰氏の記者会見をみて感じました。
自らに向けられた嫌疑に対しては、こうもニヤつきながら、他人事のように語れるものなのかと。
呆れると同時に、見下すのではなく、素直に彼が憐れに思えてきました。
自ら“プロ中のプロ”と誇る厚顔無恥さ、
星野氏の発言に我が子が悪影響を受けたと、一方的な言い草にもです。
その言葉、姿勢、
自らに置き換えて考えられない狭い料簡。
気づかない、まったく省みない不遜さ傲慢さがです。
星野氏を責める言葉を浮かべたなら、
なぜ自らが世間に与えた影響を考えられないのか?
自分を特別な人間だと勘違いしているとしか思えません。
数年前、田嶋陽子氏が、知事選に落選した折、
“若い人たち投票しなかったのかなぁ?”
と、若者は自分の味方だと思い込んでいる愚かさ。
見ていて首を傾げてしまいました。
謙虚さの欠片も感じられない態度です。
頑是無い子供の命を無残にも奪う犯罪者たち。
自分よりも弱い者にしか牙を向けられない異常性。
まるで別な人間が犯したかのごとく語る恐ろしさ。
どこか共通しているものを感じます。
殺人者とは違うのは当然ですが、思考のメカニズムがどこか似ているのです。
自分の非を認めず、省みず、社会や周囲を批判する。
そんな大の大人が蔓延っているのが今の現実です。
しかし、市井の人々も愚かではないと信じたいです。
ゆっくりでも、確実に自浄作用も行き渡るでしょう。
そう信じていなきゃ、私は明日を生きられません〆
もっともらしいことを言っている様にもみえますが、彼が反省や謝罪の言葉を述べる確率を述べられる資格はないのですかれね。
彼が今出来る事は、自らの悪行を反省し、4人の幼女の冥福を祈る事。そのたった二つしかないはず。
ただそれでも、4人は帰る事はないということが、わかっているもでしょうかね。
いや、わかっているはずがありません。
小さい子供の、この世に生まれて、まだまだ人生たくさんの楽しい事、色々な経験が出来たであろうその未来を平気でつぶしておいて、よくもまぁそんなことが言えるものです。腹立たしくて仕方ありませんね。