4月28日から5月3日にかけて、NHKの衛星放送では市川崑監督の手掛けた金田一耕助シリーズ(映画)が一挙放送されていた。市川監督が手掛けた金田一物の内、昨年公開された「犬神家の一族」(リメイク版)を除く全5作品、即ち「犬神家の一族」(1976年)、「悪魔の手毬唄」(1977年)、「獄門島」(1977年)、「女王蜂」(1978年)、そして「病院坂の首縊りの家」(1979年)というラインナップ。
これ迄に多くの監督や俳優が金田一物の製作に関って来たが、「市川崑監督がメガホンを執り、石坂浩二氏が金田一耕助役を演じる。」というこのゴールデン・コンビに優る金田一物は無いと断言出来る。横溝正史氏の著した金田一シリーズの最大の魅力は、そのおどろおどろしさに在るのは誰しも認める所だろうが、家長制度や因習が厳然と存する集落で起こるおどろおどろしくも残虐な殺人事件を、際立った映像美で描き切った市川作品は「素晴らしい!」の一言。
「原ひさ子さん演じる老婆が手毬唄を口ずさみながら手毬をつくシーンでの、幻想的とも言える手毬の上下するスピード感。」(「悪魔の手毬唄」)、「野外で催された茶会の席で殺人が起こった際、瞬時に画面が六分割され、高峰三枝子さん演じる東小路隆子を始めとした登場人物6人の驚愕の表情が、一つの画面に同時に映し出される迫力。」(「女王蜂」)、「旧家の女主人・法眼弥生(佐久間良子さん)に一途に仕える車夫の三之助(小林昭二氏)が、哀しい決意を心に秘めた彼女を乗せ、その人力車を引いて坂を下りるシーンの何とも言えない儚さ。」等々、これ迄に何度も見て来た5作品だが、今回一挙に見た事で改めてその映像美の数々を堪能した。
ところで、旧家の三人娘「月代 (浅野ゆう子さん)、雪枝 (中村七枝子さん)、花子(一ノ瀬康子さん)」が次々に殺害されて行くというストーリーの「獄門島」。「寺の境内で、梅の木に逆さ吊りされた姿で死んでいた花子。」、「『天狗の鼻」と呼ばれる崖の上に置かれた鐘の中で息絶えていた雪枝。」、そして「籠っていた祈祷所の中で絞殺され、その身体の上に萩の花弁が撒かれていた月代。」と、三者が特異な殺され方をした事でも強く印象に残っている作品だが、嘗てはちょこちょこTVで放送されていたものの、自分が知る限り近年は地上波での放送を見掛けていない。それには”或る理由”が大きく影響していると言われている。
梅の木に逆さ吊りされた花子の死体を目にし、寺の住職の了然(佐分利信氏)がぽつりと漏らした言葉「キチガイじゃが仕方が無い。」。これを耳にした金田一は、「旧家の当主で今は気がふれてしまった為に座敷牢に閉じ込められている与三松(内藤武敏氏)が、牢を抜け出して花子を殺害した。」と了然が考えたと捉える。つまり「気違いのやった事だから仕方が無い。」と口にしたと思ったのだ。
実は了然のこの言葉、謎解きに大きく影響している。三人娘はそれぞれ「鶯の身をさかさまに初音かな」(宝井其角)、「むざんやな甲の下のきりぎりす」(松尾芭蕉)、「一家に遊女も寝たり萩と月」(松尾芭蕉)という俳句に見立てた形で殺害されており、それを知っていた了然としては「『鶯の身をさかさまに初音かな』という句の季節は春なのに、殺害は梅の花が咲いていない秋だった。」という事を言っていたのだ。そう「キチガイ」は「気違い」では無く、「季(節)違い」の意味なのだが、この絶妙な掛け言葉が近年では「不適当」という事で、どうやら放送局の自主判断で放送が控えられているという。原則的に誰もが見られる地上波とは異なり、自らが意識して視聴を選択する衛星放送の場合はその手の”縛り”が余り無い様で、今回の放送では「キチガイ」という言葉はしっかり流されていた。
当該者やその家族の中には、「キチガイ」という言葉に不快感&嫌悪感を持つ人も居るだろう。だが、日本語の持つ嫋やかさを絶妙に取り入れた文学及びそれを映像化した作品が、単に表面的な言葉の面だけで問題視され、多くの目に触れ難い状況に追い遣られてしまったとしたら、個人的には非常に残念な気がする。
これ迄に多くの監督や俳優が金田一物の製作に関って来たが、「市川崑監督がメガホンを執り、石坂浩二氏が金田一耕助役を演じる。」というこのゴールデン・コンビに優る金田一物は無いと断言出来る。横溝正史氏の著した金田一シリーズの最大の魅力は、そのおどろおどろしさに在るのは誰しも認める所だろうが、家長制度や因習が厳然と存する集落で起こるおどろおどろしくも残虐な殺人事件を、際立った映像美で描き切った市川作品は「素晴らしい!」の一言。
「原ひさ子さん演じる老婆が手毬唄を口ずさみながら手毬をつくシーンでの、幻想的とも言える手毬の上下するスピード感。」(「悪魔の手毬唄」)、「野外で催された茶会の席で殺人が起こった際、瞬時に画面が六分割され、高峰三枝子さん演じる東小路隆子を始めとした登場人物6人の驚愕の表情が、一つの画面に同時に映し出される迫力。」(「女王蜂」)、「旧家の女主人・法眼弥生(佐久間良子さん)に一途に仕える車夫の三之助(小林昭二氏)が、哀しい決意を心に秘めた彼女を乗せ、その人力車を引いて坂を下りるシーンの何とも言えない儚さ。」等々、これ迄に何度も見て来た5作品だが、今回一挙に見た事で改めてその映像美の数々を堪能した。
ところで、旧家の三人娘「月代 (浅野ゆう子さん)、雪枝 (中村七枝子さん)、花子(一ノ瀬康子さん)」が次々に殺害されて行くというストーリーの「獄門島」。「寺の境内で、梅の木に逆さ吊りされた姿で死んでいた花子。」、「『天狗の鼻」と呼ばれる崖の上に置かれた鐘の中で息絶えていた雪枝。」、そして「籠っていた祈祷所の中で絞殺され、その身体の上に萩の花弁が撒かれていた月代。」と、三者が特異な殺され方をした事でも強く印象に残っている作品だが、嘗てはちょこちょこTVで放送されていたものの、自分が知る限り近年は地上波での放送を見掛けていない。それには”或る理由”が大きく影響していると言われている。
梅の木に逆さ吊りされた花子の死体を目にし、寺の住職の了然(佐分利信氏)がぽつりと漏らした言葉「キチガイじゃが仕方が無い。」。これを耳にした金田一は、「旧家の当主で今は気がふれてしまった為に座敷牢に閉じ込められている与三松(内藤武敏氏)が、牢を抜け出して花子を殺害した。」と了然が考えたと捉える。つまり「気違いのやった事だから仕方が無い。」と口にしたと思ったのだ。
実は了然のこの言葉、謎解きに大きく影響している。三人娘はそれぞれ「鶯の身をさかさまに初音かな」(宝井其角)、「むざんやな甲の下のきりぎりす」(松尾芭蕉)、「一家に遊女も寝たり萩と月」(松尾芭蕉)という俳句に見立てた形で殺害されており、それを知っていた了然としては「『鶯の身をさかさまに初音かな』という句の季節は春なのに、殺害は梅の花が咲いていない秋だった。」という事を言っていたのだ。そう「キチガイ」は「気違い」では無く、「季(節)違い」の意味なのだが、この絶妙な掛け言葉が近年では「不適当」という事で、どうやら放送局の自主判断で放送が控えられているという。原則的に誰もが見られる地上波とは異なり、自らが意識して視聴を選択する衛星放送の場合はその手の”縛り”が余り無い様で、今回の放送では「キチガイ」という言葉はしっかり流されていた。
当該者やその家族の中には、「キチガイ」という言葉に不快感&嫌悪感を持つ人も居るだろう。だが、日本語の持つ嫋やかさを絶妙に取り入れた文学及びそれを映像化した作品が、単に表面的な言葉の面だけで問題視され、多くの目に触れ難い状況に追い遣られてしまったとしたら、個人的には非常に残念な気がする。
TBありがとうございました。
>というこのゴールデン・コンビに優る金田一物は無いと断言出来る
私も同感です。原作を深く愛し、それを十分に理解した上で、映像職人としての独自の核をすえ、『市川崑の金田一耕助』として非常に魅了ある作品に仕上がっているとおもいます。あの細かなカット割り、美しい陰影、まさに映像美ですね。
そして、キーワードの件。これもおっしゃる通りですね。表面的にしかとらえず、放送禁止用語だから放送しないでは、到底納得できません。そのものの意味でなく、ストーリー上で重要な意味を持つ。
BSだから放送したではなく、地上波でもしっかり放送してほしいものです。
また、これから先も、この素晴らし原作を映像化できなくなりますね。現にここを描かずにTVドラマなどは制作されてますが、ほんと残念に思います。
ほこりをかぶっていた角○文庫本にした娘(15歳)が手を伸ばし「これ読んでみようかなぁ?」
映画を見て原作に興味をもったようです。
「最初の事件からよんでみぃや」
と本陣殺人事件から読むように進めました。
そういえば私が横溝ワールドにどっぷりはまったのは十七の年でしたっけ。
「・・・おがーさーん、ほんじんてなに??」←オイオイオイ(T_T)
娘にとって金田一センセは伊勢・源氏と同じくらい古典なようです。
過剰な音消しは聴いていて本当に不快ですよね。
でもそれはまだましな方で、
萬屋版「子連れ狼」幻の第二話と呼ばれる「乞胸お雪」などは作品フィルム自体が焼却処分されてしまって今はないのです。
エロチックなシーンが多すぎるというのが表向きの理由だそうですが、「乞胸(ごうむね)」という大道芸を生業とする被差別民が描かれ、「乞胸(ごうむね)」をはじめとして差別用語が頻発するのが、焼却の理由と言われています。
永久に拝めないなんて酷い話です。
やはり、金田一耕助シリーズは市川昆監督と石坂浩二のコンビがベストですね。おどろおどろしい物語を際立った映像で美しく描いてしまう市川監督の力量はすばらしいです。
(トヨエツの「八つ墓村」はなかったことにして・・)
>「キチガイ」
これは「獄門島」のキーワードでしょうに。まさに不毛な言葉狩りですね。しかし、それゆえに地上波での昔の時代劇の再放送が難しいわけですかね。それこそいわゆる放送禁止用語の使用頻度が高いですからね。
放送は見ていませんでしたが、この記事を見て
思い出しました。
よくぞ消さずに放映したものです。
この話の一番重要なところですから、これを消してしまうと何のことか全く判らなくなりますよね。
オチを消音してしまう落語とか、最後まで放映しない野球中継とか?
1970年代に製作されたアニメ「天才バカボン」及び「元祖天才バカボン」は、再放送された際には到るヶ所で音声が飛ばされています。御察しの通り、差別用語が含まれているという事でバッサリと音声が飛ばされている訳ですが、昔はこの手の事柄には寛容だったのでしょうね。人権意識が希薄だったとも言えるのでしょうが。
所謂”言葉狩り”が目立ち始めたのは、「ちびくろサンボ」の絵本が黒人に対する差別を助長するという事で一斉に絶版に追い込まれた辺りではなかったでしょうか。「差別だ!」と声高に叫んでいた人達は、その事で莫大な対価を得たという噂も在りましたが、真実の程はどうなのでしょうね。自分にはあの本が差別を助長するとはとても思えず、ユーモア溢れた可愛らしい作品としか捉えていなかったのですが・・・。
「明らかに差別を助長する言葉(表現)」や「明らかに多くの人間に不快感を与える言葉(表現)」ならば、それを使用不可とするのは在りだと思うのですが、必要以上に”何か”を恐れて杓子定規に且つ過剰に自主規制を行っている現状はどうかと思っています。これでは人間から発想力を奪って行くだけですし、世の中から潤いを減じさせて行く一方ではないでしょうか。
「何時の時代&場所に於いても差別は存在しており、差別を一掃するのは不可能だ。」としばしば言われます。哀しい話ですが、これは事実でしょうね。しかし、そうは言っても差別は極力取り除いて行って欲しいもの。
唯、それが行き過ぎて”言葉狩り”としか思えない事態に到ってしまうのは問題。被差別団体が「差別問題をネタに、金を集っている。」という話を良く耳にしますが、「言葉の持つ柔軟さを一切無視して、単に表面的な部分だけを取り上げ、その言葉を使えない様に追い込んでしまう。」のは許されない事だし、「その事で金を集っている。」のだとしたら言語道断。流石に最近は、この手の不毛な言葉狩りが少なくなって来たのは喜ばしい事ですし、理不尽に”闇”に葬られた作品の復権を望んでいます。
P.S. 以前記事にしましたが、「放送禁止映像大全」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/324644f3c9baa8147a3b075aaa3f34bf)という本の中には、「こんな事で、放送禁止(乃至は自主規制)になってしまったのか・・・。」と驚かされる作品が多いです。
インドチャイナと聞いたら「中印問題」のことか?と思う人の方が多いんじゃないですかね?
支那が秦を語源とする言葉で、そこからSinaやchinaとして世界に広がったのですから、英語の発音したところで何の意味がありましょうや。
なのに「支那」が日本等の東アジア地域にのみ禁圧され、その他の世界では野放しだという差別は許されることこそ不思議です。
「焚書坑儒」がバイトの学生によって行われていることに、なんにも感じない言論人は駄目だと思いますが如何。
一度もその名前で呼ばれていないのにおまけカードに書かれたその名のせいで欠番入りしたスペル星人の回を復活させてほしいです。
「差別と感じてる方が差別」だと思います。