ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「禁忌」という概念の違い

2010年04月09日 | 其の他
幅広い分野の作品を著して来た作家・今野敏氏だが、十八番としているのは所謂警察小説」だろう。この分野でも魅力的なシリーズを多く生み出しているけれど、登場人物達の個性が際立っているという点に於ては、ST 警視庁科学特捜班」シリーズが断トツの様に思う。

「ST」は「Scientific Taskforce」の略で、邦訳すると「科学特捜班」となる。警視庁科学捜査研究所に設置された「ST」(実際には架空の組織。)のメンバーの活躍を描いた作品だが、こちらを見て戴ければ御判りの様に、メンバー達の個性は半端じゃなく濃い。それぞれ類い無き能力を有する彼等は“超人”といっても良い存在で、嘗ての大人気漫画「サイボーグ009」を彷彿とさせる。「この作品をドラマ化したら面白いだろうに。」と、各キャラクターのキャスティングを頭の中で色々想像したりも。

このシリーズの第一弾は「ST 警視庁科学特捜班」で、今から12年前の1998年に刊行されている。この作品では3人の外国人女性が殺害されるのだが、プロファイリングも専門分野とする青山翔というメンバーが犯人像を示すシーンがなかなか興味深い。一部ネタバレになってしまうが、「1人の女性は神社に、そして1人の女性はにその死体が遺棄されていた。」事実から、同一人物による連続殺人の可能性を指摘する。

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その点についてヒントをくれたのは、山吹さんだ。神社と寺は心理的に大きな違いがある。神社仏閣ということで、犯人の心理の中で何か共通点があるのかと思ったが、山吹さんに言われてなるほどと思った。神社で葬式を行う人はいないし、寺で結婚式を挙げるのも一般的ではない。祟りを恐れるため神社には穢れを持ち込まない。死体は神道においては穢れということになる。一方、寺に死体を持ち込むのは、日常的な感覚だ。だから、神社に死体を放置するのは心理的にもすごく異常なことで、寺に放置したのは、あくまでも心理的にいうとそれほど異常なことではない。だから、僕は最初、混乱してしまった。これでは、理屈が合わない。論理が成り立たない。まるで別の犯人がやったようだ。しかし、このことが逆に犯人像を絞る手掛かりになったんだ。(中略)神社と寺に死体を捨てるという心理的な差異はただ一つの理屈で簡単に説明がつく。つまり、犯人は感覚的に神社と寺の差がわかっていなかった。そのことがどんな人物かを物語っている。(中略)外国人さ。(中略)おそらく外国人には神社と仏閣の区別がつかないだろう。もし、神社と仏閣が別のものだと頭でわかっていても、山吹さんが説明してくれたような感覚的な違いは理解できない。キリスト教では死者を弔うのも結婚式を挙げるのも教会だ。同様に、イスラム教でも両方を同一の教会でやるだろうし、仏教国ならば結婚式も葬式も寺で行う。日本人が日常的に神道と仏教を使い分けているなどということが信じられないはずだ。
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禁忌」という概念からすれば「神社と寺のどちらかに死体を遺棄しなければいけない。」と想定した場合、確かに“一般的な”日本人の場合は寺の方が抵抗感が少ないのかもしれない。唯、この小説が刊行された12年前と比べると、近年は「余りに罰当たり」と感じる事件が増えているので、そういった禁忌の概念も揺らいで来ているのかも。

「禁忌の概念の違い」というよりも「死生観の違い」とした方が相応しいのかもしれないけれど、こちらで紹介されている様に「日本航空123便墜落事故」の際の遺体の取り扱いに関して、「一般的な日本人」と「キリスト教徒の外国人」との考え方の差というのが在った。一般的な日本人の場合は「その遺体が五体満足で在る事を望み、必死になって欠落している部位を捜す。」の対し、「『死』というのは身体に『精神』が宿っていないのだから物体と同じで在り、故に全て火葬にすれば良い。」と考えるキリスト教徒の外国人(そういう考えの人だけとは思わないけれど。)の中には、拾い集めた部位の判別&個人特定する日本のスタイルに関して「何故手足等を判別したり、個人特定する必要が在るのだろうか?」と不思議がる人も居たとか。どっちの思考が良い悪いでは無く、文化に基づく思考の違いが其処に在る訳だ。

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