「玉砕 = 大義や名誉等に殉じて、潔く死ぬ事。」
「飢えの島-ガダルカナル島・ツラギ島」、「数奇の島-ニュージョージア島ムンダ」、「墓の島-ブーゲンビル島」、「恐怖の島-タラワ島」、「再玉砕の島-マキン島」、「バンザイの島-サイパン・テニアン」、「渇きの島-硫黄島」。第二次世界大戦で連語国軍と激戦を交えた日本軍が玉砕していったこれ等の島々に、終戦から29年後の1974年に生まれた笹幸恵さんが実際に足を運び、”玉砕の島”の過去と現在を綴った作品「女ひとり玉砕の島を行く」。「嘗てこれ等の島で戦い、多くの戦友を失い乍ら、生還する事が出来た元兵士達。」や「これ等の島で最愛の身内を失ったばかりか、その骨の在り処が未だに不明な戦争遺族達。」、そんな彼等と同行して生の声に触れ、現地で戦争の爪痕を目の当たりにする事で、”戦争を知らない”彼女が何を感じたか詳らかに記されている。
一口に「玉砕」と言っても、基本的に「兵士の死」を意味するケースの他に、サイパン島やテニアン島の様に「多くの民間人が戦闘の巻き添えになって死んだり、降伏を拒否して自殺した、即ち民間人が玉砕の中に含まれるケース。」も在る。冒頭で「玉砕」の定義に「潔く死ぬ」という表現を入れたが、「潔く死ななければならない状況に追い込まれた」という面も多分に在ったろう。
ガダルカナル島に投じられた日本軍の兵士は合計3万3,600名で、その内約2万名が命を落としたという。(アメリカ軍の戦死者数は1,598名。)数多の命が奪われた事だけでも遣り切れないのに、「この約2万名の内戦死者は8,200名、残りは殆ど病死、或いは餓死。」という事実が余計に遣り切れなさを増してしまう。それだけ悲惨極まりない現実が、当時彼の島を支配していたのだ。
「ジャングル内に潜む日本軍の動きを察知する為、アメリカ軍がマイクロフォンを仕掛けていた。」、「ブーゲンビリアの名と起源を同じくする島・ブーゲンビル島では、大勢の日本兵が戦死した事で有名なミッドウェー島やガダルカナル島よりも遥かに多い死者(陸海軍合わせて約6万7千名が守備を担い、その内3万名とも4万名とも言われる兵士達がブーゲンビル島で屍となった。この島でも、その多くは病死や餓死だったとか。)が出ている。」等、恥ずかし乍らこの本によって初めて知った事実が幾つか在った。
「アメリカ軍の戦車が背中を通過していったものの砂地が緩衝材になったのか、キャタピラーに轢き潰される事無く生還した兵士の話。」、「父親が亡くなった地を訪れた際、偶然にして父親の使用していた飯盒を発見し、その傍から父親の物と思われる遺骨を掘り出した息子の話。(その日が丁度、父親の30年目の命日だったというのも因縁を感じる。)」、「足首に弾丸が貫通し歩行不能となり、一人取り残された壕の中で自決を考えた兵士。しかし撤退した筈の戦友6名が彼を助ける為に戻って来て、担架で百km余りの道程を野戦病院を中継し乍ら、一ヶ月以上も掛けて兵站病院迄運んでくれた事で彼は生還を果たすが、その入院中に彼を助けてくれた戦友達全員が戦死したという知らせを聞くという運命の皮肉さを感じてしまう話。」等々、元兵士達や戦争遺族達の証言は非常に重い。
父の慰霊の為にブーゲンビル島を訪れた男性が、彼の地の子供達に喜んで貰おうと竹とんぼを用意して来ていたのだが、彼が語った言葉「父親がこの島に眠っているでしょう。其処に木が育ち、実がなる。それをこの島の子供達が食べて育つ。だから、此処の子供達が他人の様な気がしないんですよ。」には胸を打たれた。
「夫が定年退職する前に、ガダルカナル島の慰霊団の記事を見たんです。勿論私も義父が其処で亡くなっている事を知っていましたから、『何時か行きたいね。』と言ったんです。そうしたら、夫は厳しい表情になってね、『俺達を残して逝ってしまったのに。』と言うでんすよ。それ以上、私もガダルカナルの事に触れる事は出来ませんでした。」今は亡き夫の代わりに、義父の慰霊でガダルカナル島を訪れた女性の言葉。嘗ての戦地から日本の兵士の遺骨や遺品が今でも見付かるが、それを祖国に持ち帰っても受け取りを拒否される事が少なくないという話はTV番組等で見聞していた。それは姪だったり子供の連れ合いだったりと、戦死者からは”やや離れた存在”で在る為に、「今更遺骨や遺品を持って来られても困る。」という思いが在るのは理解出来なくも無い。しかし戦死者とは近しい人間で在る筈の息子達の中に、戦場で逝った父親に対して複雑な思いを抱く人も少なくないというのは意外だった。「戦争の話を聞く度に、うちの親父は無駄死にだったのかと思い知らされる。そんな話は聞きたくない。」、「親父が生きてさえいれば、虐められる事も、肩身の狭い思いもする事なんかなかったのにって、ずっと突っ張って不良をやっていた。」、「親父が生きていれば、おふくろは苦労しなくて済んだのに。」等々、著者も書いているが「戦争は戦場で亡くなった人ばかりで無く、残された者にも深い傷跡を負わせる。」というのをつくづく感じてしまう。
嘗て”南の島”で起こった悲惨な出来事と、そして今もその哀しみを引き摺っている人達の存在。端的に纏められたこの作品を、多くの人達に読んで貰いたい。
「飢えの島-ガダルカナル島・ツラギ島」、「数奇の島-ニュージョージア島ムンダ」、「墓の島-ブーゲンビル島」、「恐怖の島-タラワ島」、「再玉砕の島-マキン島」、「バンザイの島-サイパン・テニアン」、「渇きの島-硫黄島」。第二次世界大戦で連語国軍と激戦を交えた日本軍が玉砕していったこれ等の島々に、終戦から29年後の1974年に生まれた笹幸恵さんが実際に足を運び、”玉砕の島”の過去と現在を綴った作品「女ひとり玉砕の島を行く」。「嘗てこれ等の島で戦い、多くの戦友を失い乍ら、生還する事が出来た元兵士達。」や「これ等の島で最愛の身内を失ったばかりか、その骨の在り処が未だに不明な戦争遺族達。」、そんな彼等と同行して生の声に触れ、現地で戦争の爪痕を目の当たりにする事で、”戦争を知らない”彼女が何を感じたか詳らかに記されている。
一口に「玉砕」と言っても、基本的に「兵士の死」を意味するケースの他に、サイパン島やテニアン島の様に「多くの民間人が戦闘の巻き添えになって死んだり、降伏を拒否して自殺した、即ち民間人が玉砕の中に含まれるケース。」も在る。冒頭で「玉砕」の定義に「潔く死ぬ」という表現を入れたが、「潔く死ななければならない状況に追い込まれた」という面も多分に在ったろう。
ガダルカナル島に投じられた日本軍の兵士は合計3万3,600名で、その内約2万名が命を落としたという。(アメリカ軍の戦死者数は1,598名。)数多の命が奪われた事だけでも遣り切れないのに、「この約2万名の内戦死者は8,200名、残りは殆ど病死、或いは餓死。」という事実が余計に遣り切れなさを増してしまう。それだけ悲惨極まりない現実が、当時彼の島を支配していたのだ。
「ジャングル内に潜む日本軍の動きを察知する為、アメリカ軍がマイクロフォンを仕掛けていた。」、「ブーゲンビリアの名と起源を同じくする島・ブーゲンビル島では、大勢の日本兵が戦死した事で有名なミッドウェー島やガダルカナル島よりも遥かに多い死者(陸海軍合わせて約6万7千名が守備を担い、その内3万名とも4万名とも言われる兵士達がブーゲンビル島で屍となった。この島でも、その多くは病死や餓死だったとか。)が出ている。」等、恥ずかし乍らこの本によって初めて知った事実が幾つか在った。
「アメリカ軍の戦車が背中を通過していったものの砂地が緩衝材になったのか、キャタピラーに轢き潰される事無く生還した兵士の話。」、「父親が亡くなった地を訪れた際、偶然にして父親の使用していた飯盒を発見し、その傍から父親の物と思われる遺骨を掘り出した息子の話。(その日が丁度、父親の30年目の命日だったというのも因縁を感じる。)」、「足首に弾丸が貫通し歩行不能となり、一人取り残された壕の中で自決を考えた兵士。しかし撤退した筈の戦友6名が彼を助ける為に戻って来て、担架で百km余りの道程を野戦病院を中継し乍ら、一ヶ月以上も掛けて兵站病院迄運んでくれた事で彼は生還を果たすが、その入院中に彼を助けてくれた戦友達全員が戦死したという知らせを聞くという運命の皮肉さを感じてしまう話。」等々、元兵士達や戦争遺族達の証言は非常に重い。
父の慰霊の為にブーゲンビル島を訪れた男性が、彼の地の子供達に喜んで貰おうと竹とんぼを用意して来ていたのだが、彼が語った言葉「父親がこの島に眠っているでしょう。其処に木が育ち、実がなる。それをこの島の子供達が食べて育つ。だから、此処の子供達が他人の様な気がしないんですよ。」には胸を打たれた。
「夫が定年退職する前に、ガダルカナル島の慰霊団の記事を見たんです。勿論私も義父が其処で亡くなっている事を知っていましたから、『何時か行きたいね。』と言ったんです。そうしたら、夫は厳しい表情になってね、『俺達を残して逝ってしまったのに。』と言うでんすよ。それ以上、私もガダルカナルの事に触れる事は出来ませんでした。」今は亡き夫の代わりに、義父の慰霊でガダルカナル島を訪れた女性の言葉。嘗ての戦地から日本の兵士の遺骨や遺品が今でも見付かるが、それを祖国に持ち帰っても受け取りを拒否される事が少なくないという話はTV番組等で見聞していた。それは姪だったり子供の連れ合いだったりと、戦死者からは”やや離れた存在”で在る為に、「今更遺骨や遺品を持って来られても困る。」という思いが在るのは理解出来なくも無い。しかし戦死者とは近しい人間で在る筈の息子達の中に、戦場で逝った父親に対して複雑な思いを抱く人も少なくないというのは意外だった。「戦争の話を聞く度に、うちの親父は無駄死にだったのかと思い知らされる。そんな話は聞きたくない。」、「親父が生きてさえいれば、虐められる事も、肩身の狭い思いもする事なんかなかったのにって、ずっと突っ張って不良をやっていた。」、「親父が生きていれば、おふくろは苦労しなくて済んだのに。」等々、著者も書いているが「戦争は戦場で亡くなった人ばかりで無く、残された者にも深い傷跡を負わせる。」というのをつくづく感じてしまう。
嘗て”南の島”で起こった悲惨な出来事と、そして今もその哀しみを引き摺っている人達の存在。端的に纏められたこの作品を、多くの人達に読んで貰いたい。
厳島神社には過去2回訪れましたが、「水面に映る紅の鳥居と山の木々の色合い」の絶妙さに魅了されました。紅葉の時期はもっと美しいのでしょうが、木々に緑が残る今も、その風情は味が在りますね。
原爆ドームもやはり過去に2回訪れていますが、戦争の悲惨さと亡くなって行った人々の無念さに心が支配されてしまいます。ドラマ「はだしのゲン」が高視聴率を記録し、毎年の様にアニメ「垂るの墓」が放送されているのに、「嘗てアメリカと日本が戦争していたのは事実か?」という問いに「NO」と答える若者が少なくないという報道が、どうにも自分には理解出来ません。平和を享受している以上、多くの国民がその礎となった戦没者達の無念さを知って欲しいものです。
戦争で自らの命を失った者達。生き残った方々の証言を見聞すると、「天皇陛下万歳!」と叫んで死んで言った者よりも「おかあさん!」と叫んで亡くなって行った者の方が遥かに多かったと言います。当たり前ですよね。死の恐怖を抱きつつ、「愛する者達を守る為」という思いで自分の短い一生を慰めなければならなかったで在ろう戦死者達。辛いですね・・・。
御身内に戦死者、それも異国の地で御亡くなりになられた方が居られると、戦争に対する思いは普通の方以上に深い物が在ると御察し申し上げます。
今の日本の平和が多くの戦死者の犠牲の上に成り立っている事を、我々は忘れてならないと思うし、為政者がおかしな方向に走らない様に注視していかないといけないでしょうね。
今後とも何卒宜しく御願い致します。