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「諫早市で天正遣欧少年使節 千々石ミゲルの可能性が高い遺骨を発見」(9月12日、テレビ長崎)
天正遣欧少年使節の1人、千々石ミゲルの可能性が高い遺骨が見付かりました。
遺骨が見付かったのは、諫早市多良見町の千々石ミゲルの墓とされて来た場所です。
子孫の浅田昌彦さん(68歳)が立ち上げたプロジェクトの第4次発掘調査(8月~)で発見されました。
性別や死亡時の年齢等、骨の鑑定を待つ必要が在るものの、墓碑に記されていた名前や2017年の調査で、隣に妻と見られる女性の埋葬が確認された事から、遺骨はミゲル本人の可能性が高いという事です。
千々石ミゲルの子孫・浅田昌彦さん:「歴史を書き換える様な事実となれば、私にとっても、先祖への恩返しも含めて、地元の皆様への恩返しという意味でも大変嬉しい。」。
9月15日迄、埋葬品が無いか等を調べます。
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日本史にそこそこ詳しい方ならば御存知とは思うが、「天正遣欧少年使節」に付いて簡単に説明したい。
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天正遣欧少年使節:1582年、九州のキリシタン大名の大友義鎮(宗麟)・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された「伊東マンショ(13歳?)、千々石ミゲル(13歳?)、中浦ジュリアン(14歳?)、原マルチノ(13歳?)」という4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案。1590年に帰国。使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、彼等が持ち帰ったヨハネス・グーテンベルクの印刷機によって、日本語書物の活版印刷が初めて行われ、キリシタン版と呼ばれる。
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天正遣欧使節が派遣された1582年は、本能寺の変で織田信長が殺害された年で在る。其れから8年後の1590年、伊東マンショ等は帰国した訳だが、派遣された時には今ならば中学生だった彼等も、帰国時には21歳~22歳の“大人”になっていた。心身共に大きく変化していたで在ろう彼等だが、8年振りの“母国”はもっと変化していた。為政者は豊臣秀吉に代わり、彼によって「バテレン追放令」が3年前に発令。日本はキリスト教が禁じられており、4人にとって生きて行くのが困難な時代となっていたのだ。
帰国後、4人が辿ったと“される”過酷な運命を、簡単に纏めてみる。
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伊東マンショ:1608年、原マルチノと中浦ジュリアンと共に司祭に叙階され、豊前小倉を拠点にして活動していたが、1611年、領主・細川忠興によって追放され、中津へ移る。更に追われて長崎へ移り、同地のコレジオで布教活動していたが、1612年に病死(43歳?)。
千々石ミゲル:帰国から11年後の1601年、キリスト教を棄教したと“される”。晩年に付いては不明な点が多く、1633年に亡くなったとされている(64歳?)。
中浦ジュリアン:1633年、長崎で穴吊るしの刑により殉教(65歳?)。
原マルチノ:1629年、追放先のマカオで死去(60歳?)。
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詰まり“定説”によれば、伊東マンショと中浦ジュリアン、そして原マルチノの3人はキリスト教を信じ続けた事で非業の死を遂げ、千々石ミゲルはキリスト教を捨てた“裏切者”として後世に名を刻んだ訳だ。
ところが、2017年に諫早市で千々石ミゲルの物と言われて来た墓の発掘調査が始まり、調査を進める中で“定説”が揺らいで来た。墓中にヨーロッパ製のロザリオと見られる副葬品が見付かり、「此の墓が本当に千々石ミゲルの物で在れば、彼は死ぬ迄キリスト教を捨てなかったのでは?」という話になったからだ。今回発見された遺骨が千々石ミゲルの物と確定されれば、「彼は裏切者では無かった。」という事になりそうだ。其の死から400年近くの間、着せられ続けた汚名が晴れる事になるのだろうか?