ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

久留米勤労補導学園

2021年10月14日 | 歴史関連

戦争は数多くの犠牲者を生み出すが、特に“社会的弱者”とされる者達には、苛烈な犠牲を強いる。社会的弱者とはざっくり言えば、老人や女性、そして子供だ。「戦争の結果、保護者を失った子供。」で在る“戦災孤児”の内、「一定の住居も持たず、物乞い等をして彷徨い暮らす子供。」は“浮浪児”と呼ばれていた。

太平洋戦争により、日本では約12万人の戦災孤児が発生し、1948年版の『朝日年鑑』によると、其の内浮浪児の数は推定3万5千人で、多くが14歳以下中学生だった。と言う。4年前の記事「浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち」で彼等の実態の“一部”を紹介したが、
浮浪児の多くは社会から迫害され、そして死んでいった者も少なく無かったと言う。

戦災孤児に関する書物を其れなりに読んで来た自分だが、10月10日付けの東京新聞(朝刊)に「目指したのは孤児の理想郷」という特集記事が組まれており、其処で初めて「久留米勤労補導学園」の存在を知った。1945年6月、厚生省は「戦災遺児保護対策要綱案」を作成し、孤児は国難準じた両親の子として「国児」と呼ぶ事、又、省庁横断型の「国児院」の設置を打ち出した。だが、終戦によって構想頓挫し、国児は戦災孤児として社会に投げ出される。

警察庁によると、物乞い、残飯漁り、盗み、掏摸等、1945年の少年犯罪検挙数は約5万人。其の多くは、戦災孤児による物だったと思われる。そして、警察機能が復活し、子供の“狩り込み”(孤児を、強制的収容する事。)が始まると、1946年の少年犯罪検挙数は約11万1,700人と、倍以上になった。其の約8割が窃盗容疑。子供達は“収容所”に入れられると、性別や年齢等で振り分けられ、各施設に送られた。とは言え、日本中が飢餓に苦しんでいた当時、施設に行っても食料が無く、逃げ出す子供も多かったそうだ。

そんな惨状に心を痛め、1946年1月、旧久留米村(現在の東京都東久留米市)に「久留米勤労補導学園」を創設したのが中込友美施設長だった。高村光太郎氏とも交流していた詩人の彼には、児童養護の経験は無かったが、「公共の子、社会の子として、何の引け目も無く、有力な新しい時代建設の若い力として仕上げて行く。」、「生徒を主体者として、青少年の工場、青少年の農園を作って行く。」という思いで、学園を創設したのだ。

1954年発行の「都政十年史」には、戦災孤児の保護先として「久留米勤労保護学園」の名前が刻まれている。海外の無線傍受の重要拠点だった旧北多摩陸軍通信所に近くに、其処に勤務する幹部官舎が在り、其の1つが、戦後民間に払い下げられ、此処を拠点に運営されたのが久留米勤労保護学園だったとか。戦後の児童福祉を研究して来た元明星大学教授藤井常文氏は、「研究者の間でも、久留米勤労保護学園の存在は殆ど知られていない。、民間施設で在り乍ら、当時の都政史に名を連ねているの珍しい。行政から頼られていたのではないか。」と推察している。又、東久留米市郷土資料室によると、「施設が在ったと聞いた事は在るが、資料は全く残っていない。」との事。

中込一家も隣家に移り住み、家族総出で同学園を支えた。都の資料によると、同学園は当初、19人の子供を抱えており、1947年には46人に膨れ上がった。15歳前後の少年が多く、子供達は学校に通い乍ら農作業をし、園内の電気器具工作室や農産加工室で職業教育を受けたと言う。中には、近隣の工場やパン屋に修行に行く子も。

学園の名前に「勤労補導」と在る様に、子供を保護するだけでは無く、“職業教育”で自立させたい。というのが、中込施設長の考えだった。当時、同園の裏に住んでいた男性(79歳)は「(同園の)御兄さん達に、良く遊んで貰っていました。」、「御兄さん達と夕方遊んでいると、施設長の奥さんが本当の母の様に『御飯出来たよ。』と呼びに来てね。大きな家族の様な学園でしたよ。」と思い出を語っている。又、狩り込み”から逃げる中、仲間の1人が体調を崩した事をに、一時保護されて同学園に遣って来たという男性(86歳)は、「山で採って施設長の奥さんに上げたら、其の茸を入れて、水団を作ってくれてね。彼の水団の味を忘れた事は、一度も無い。大変な時代だったけど、彼の学園が在って生きて来られた。」と証言。

楽しい思い出を語る元園児が居る一方で、「朝早くに起きて、麦踏みをさせられて足が腫れてね・・・。何でこんな苦しい思いをしなければいけないのかと思った。」と語る元園児の男性(88歳)も。大阪大空襲で焼け出され、家族と離れ離れになった彼は、仲間と共に東京に来て、久留米勤労補導学園で生活する事になったが、苦しさに耐えられず、学園を逃げ出したと言う。「子供を只保護するだけでは無く、“職業教育”で自立させたい。」という中込施設長の思いが、になった面は在るのだろう。

全てが順風満帆だった“理想郷”は、1950年5月、僅か4年4ヶ月で幕を閉じる事に。中込施設長の次男(84歳)は、父の職業教育は、GHQ(連合国軍総司令部)から“児童虐待”を疑われ、理念を説明しても、一方的に解散を言い渡されたと聞いています。と証言している。職業教育が、子供達を強制的に働かせていると見做された訳だ。

子供達の身の回りの世話をしていた施設長の奥さんが、結核患い、中込施設長が其の看病に掛かり切りとなり、学園に手が回らなくなってしまった事も重なった。学園の閉鎖後、施設長の奥さんは入院し、一家は離散。次男と四男(78歳)は全寮制私塾に預けられる等、家族にとっても大きな分岐点になったそうだ。

其の後、神戸新聞の記者となった次男は、「我が家が彼の場所で暮らしたのは、戦後の最も厳しい時代だったが、私には楽しい思い出許りだ。」と語っている。


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