読んだのがかなり昔だった事もあって、かなりうろ覚えな部分が有るのだが、ノンフィクション作家であり評論家でもある柳田邦男氏の作品(「事実の読み方」だったか?)の中に、「死生観」に触れたエッセイが有った。その中に、次の様な趣旨の文章が有ったと記憶している。
「亡くなる時には、痛みや苦しみを伴う癌等ではなく、老衰で逝きたいと考える若者が多いと聞く。しかし、自分は敢えて癌で逝きたいと思う。癌を告知される事で、余命を知り、限られた人生をより有意義に生きたいからだ。」
自分も多くの若者の様に、癌で逝くのは絶対に嫌な人間である。身内を癌で亡くし、死に到る迄の苦しむ様が、嫌と言う程脳裏に焼き付いている。余命を有意義に生きたいという考えは判るが、だからと言って、癌で逝きたいと言える程は達観していない人間なのだ。
「癌である事が判明したら、告知して欲しい。」とか、「助かる見込みがない末期状態を迎えたら、安楽死させて欲しい。」と、常日頃家族に言っている自分だが、実際にその状況に直面した際、恥ずかしい程迄に取り乱すかもしれないし、”生”にしがみつくかもしれない。
死を毅然と受け入れるだけの境地に、自分は達せられるものなのだろうか・・・。
「亡くなる時には、痛みや苦しみを伴う癌等ではなく、老衰で逝きたいと考える若者が多いと聞く。しかし、自分は敢えて癌で逝きたいと思う。癌を告知される事で、余命を知り、限られた人生をより有意義に生きたいからだ。」
自分も多くの若者の様に、癌で逝くのは絶対に嫌な人間である。身内を癌で亡くし、死に到る迄の苦しむ様が、嫌と言う程脳裏に焼き付いている。余命を有意義に生きたいという考えは判るが、だからと言って、癌で逝きたいと言える程は達観していない人間なのだ。
「癌である事が判明したら、告知して欲しい。」とか、「助かる見込みがない末期状態を迎えたら、安楽死させて欲しい。」と、常日頃家族に言っている自分だが、実際にその状況に直面した際、恥ずかしい程迄に取り乱すかもしれないし、”生”にしがみつくかもしれない。
死を毅然と受け入れるだけの境地に、自分は達せられるものなのだろうか・・・。
喘息もちなんで、病気のつらさはわかってますし、ガンなんてお金がいくらあっても足りないですからねぇw。
そしてこの度は、優しいお言葉まで頂きまして、
本当にありがとうございました。
おかげさまで、かなり復活いたしました。
さて、「死生観」についてですが、
正直僕は「死ぬ」のがすごく怖いと思っています。
だから、癌だとわかっても教えてほしくない気もしますし、
でも何も知らないで死ぬのもイヤだな、とも思いますし。
どちらにしろ、僕は取り乱してしまうような気がします。
でも、「どうすることもできない」となると、
人は以外に達観視できたりするのかも知れませんね。
ぱんだといいます。
「死生観」とても大事な問題だと思います。
人間根本の問題ではないでしょうか?
すごく大切な内容を扱っていたので、
コメント&TBさせてもらいましたね!
こちらでもこのテーマはよく扱ってますので、
よろしければ一度お越し下さい!
待ってます!!!