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「強制不妊一時金、無記録も対象 救済策固まる」(10月31日、共同通信)
旧優生保護法(1948年~1996年)下で障害者らに不妊手術が繰り返された問題で、自民・公明両党の合同ワーキング・チーム(WT)は31日、被害救済に向けた議員立法の骨子を決めた。「身体的・精神的苦痛に対し、深く反省し御詫びする。」と明記し、手術記録が残っていない人も対象に、一律の一時金を支給する。此れで、救済策の大枠が固まった。近く野党も参加する超党派議員連盟と詳細を詰め、来年の通常国会に法案を提出する。
骨子は、全国被害弁護団が明らかにする様求めていた「旧法の違憲性」には言及しなかった。
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旧優生保護法では「遺伝性疾患や、遺伝性では無い精神疾患や知的障害の在る人に関し、医師が申請し、審査会の決定等を条件に、強制不妊手術の実施。」が認められていた。被手術者の同意は不要で、1949年~1992年の間に同法にて強制不妊手術された人数は約1万6,500人にも上ると言う。
「遺伝性疾患や、遺伝性では無い精神疾患や知的障害のあ在る人達。」に対してというのは知っていたけれど、昨日のニュースで「『不良だった。』という理由から、強制不妊手術をされてしまった男性。」の存在を知り、「そんな事迄行われていたのか・・・。」と驚いてしまった次第。
「身体的・精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆に此れ等の能力に劣っている者の遺伝子を排除して、優秀な人間だけを後世に遺そうという思想。」を優性思想と言い、過去にアドルフ・ヒトラー元総統やニコラエ・チャウシェスク元大統領等の政権下で、此の思想が正当化され、そして人種差別や障害者差別、延いては殺戮行為へと結び付いていった歴史が在る。
国が制定した不条理な法律により、強制不妊手術を受けさせられた多くの人達。「泣き寝入りするしか無かった。」というのは本当に気の毒だし、国として謝罪&補償を行うのは、個人的に当然の事と考える。
世界は、色んな人達で構成されている。“多様”なのが当たり前なのに、「“自分が信じる1つの形”だけしか、存在してはならない。」と考え、そして其れ以外を“排除”し様とする偏狭な人が、世界的に増えている。先月の記事「“線引き”は難しいが、主張自体は共感出来る。」のコメント欄に悠々遊様が書き込んで下さったが、「『生まれ乍らに障害が在る人は、本来生まれて来るべきでは無かった。障害を持って生まれて来るのは、前世での悪行が罰になっている。』等と言い放った高齢女性なんぞも、そんな1人だろう。(そういう人達は自身、又は最愛の人達が障害を持って生まれて来ても、同じ主張を出来るのだろうか?)
世界的に多様性を排除する風潮が広まりを見せる中、旧優生保護法の様な考え方が広まらない事を、心から願う。
人が人を外見だけで差別し排除しようとする、そんなおぞましい世界の出現は願い下げですが、一方でこのような問題はきれい事では済まされない気もします。
団塊の世代は数の力もあって、頑張って高度経済成長を支え、敗戦で困窮した日本から今日の豊かな社会を築き上げてきたと思っています。
しかし一方では昔は5人の労働力で1人の高齢者を支えてきたのが、これからは2.5人で1人を、やがては1人で1人を、その先には1人で2人の高齢者を支えていくことになる。
しかも年金を当てにできないかもしれない若い世代がかわいそう、団塊の世代の高齢者はお荷物。
そんな声が聞こえてきそうな昨今の風潮。
障害者も似たような問題をはらんでいるように思います。
たとえば現在は10人に1人以下と思われる、生活の上で介助者を必要としている障害者数だから、障害者を差別するような優しくない社会は「悪だ」と言えても、これが5人に1人、2人に1人が障害者となってしまった社会でも同じようなことがいえるのかな、と。
「何度も何度も戦争を繰り返す。」様な愚かしさが在る一方で、「ピンチをチャンスに変えて来た。」というのも、同じ人類。少子高齢化の記事を書いた際にも記したのですが、“支える人達”が減ったら減ったで、支える人達に変わる何かを見付け出す・・・人類にはそういう叡智が在ると信じたい。其れが機械化なのか、又は外国人なのか、将又想像が及ばない何かなのかは判らないけれど。
綺麗事だとは判っていても、其れでも「不要な人間なんか居ない。」と信じたい。どういう理由にせよ、排除の論理が罷り通れば、何れは誰しも排除される側になる可能性が在ると思うし、そんな世の中は堪らなく息苦しいと思うので。