一昨日亡くなられた藤田元司氏の葬儀&告別式が、藤田家とジャイアンツの合同で行なわれる事となった。「ジャイアンツの危機を二度も救ってくれた大恩人に対し、球団葬という話が全く出て来ないのは、一昨年のプロ野球合併騒動の際に読売グループに対して毅然と批判したからではないか?もしそうならば、ジャイアンツという組織は何とケツの穴の小さい、情の欠片も無いチームだ。」と憤りを感じていたのだが、何とか愚行を繰り返さないで済んだ事にホッとしている。
話は全く変わるのだが、昨日の東京新聞(夕刊)のコラム「放射線」で、作家の中村文則氏が「活字離れ」という記事を書かれていた。その記事は次の様な文章で始まっている。
*************************************
或る方から聞いたのだけど、「今迄小説を読んだ事が無い。」という青年に「どうして?」と聞いたら、「つまらないから。」という答が返って来たという。「読んだ事が無いのにつまらないって判るの?」と尋ねたら、その青年は「ああ、そうか。」と言ったのだそうだ。
*************************************
コントの様にも思える遣り取りだが、こういった事はまま在る様に思う。選挙の際に、「各党のマニフェストをどう思いますか?」と尋ねられ、「チョー難しくて判んない。」と答える若者。しかし、「何処が難しかったの?」と改めて尋ねると、「難しいから読んでない。」と平然と答えているシーンを目にすると、ドッと疲れが出てしまう。
話を記事に戻すが、中村氏は世の中が「活字離れ」の方向に在るとした上で、その青年の読書が漫画だけという事に付いては「別にそれを悪いとは思わない。」とし、次の様に書いている。
*************************************
唯、「たまには小説とかノンフィクションとか、そういった文章にも触れた方が楽しいのに。」と勝手に思う。
僕は殆ど毎日、好きだから主節を読んでいるけど、たまには漫画も読むし、映画も沢山観る。自分の趣味や嗜好を限定するのは勿体無い様に思うのだ。ギャグ漫画を読んだ後に、結構、硬派な文学も読んでみる。そっちの方が自分の世界が広がるし、面白い人間になれるのではと考えたりもする。
付け加えるなら、小説でも音楽でも、皆が読んだり聞いたりしているものばかり選ぶのも、結構勿体無い気もする。皆と同じ感動を体験して皆と同じものを得るのも良いけど、人とは少し違ったものを自分で捜す、そうやって本当に自分に合うものに出会って、人とは違う世界を知るのも、楽しい事ではないかと思う。
*************************************
知識ばかりを詰め込み、実践が伴わない、所謂机上の空論者では困るが、様々なものに積極的に触れる事は非常に重要に思う。それが、本や音楽といった物に限らず、一見無駄と思われる事で在ってもだ。
学生時代、”遊び人”な連中を冷めた目で見ていた。「何て馬鹿な事をしているんだろう。」と。でも、そういった連中とこの年になって会うと、自分に比べて”人間的な幅”を感じる事が良く在る。勿論、遊び呆けている”だけ”だったり、未だにそれを引きずっている連中で在れば論外なのだろうが、遊びを上手く”人間的な魅力”に転じさせているので羨ましく思ったりもする。
世の中に、無駄な知識や経験(違法なものは別だが。)等無いのではないか?それなのに、「つまらないから。」とか「難しくて判らないから。」の一言で、その機会を自ら閉ざしてしまうのは、自分も勿体無い事と思う。
話は全く変わるのだが、昨日の東京新聞(夕刊)のコラム「放射線」で、作家の中村文則氏が「活字離れ」という記事を書かれていた。その記事は次の様な文章で始まっている。
*************************************
或る方から聞いたのだけど、「今迄小説を読んだ事が無い。」という青年に「どうして?」と聞いたら、「つまらないから。」という答が返って来たという。「読んだ事が無いのにつまらないって判るの?」と尋ねたら、その青年は「ああ、そうか。」と言ったのだそうだ。
*************************************
コントの様にも思える遣り取りだが、こういった事はまま在る様に思う。選挙の際に、「各党のマニフェストをどう思いますか?」と尋ねられ、「チョー難しくて判んない。」と答える若者。しかし、「何処が難しかったの?」と改めて尋ねると、「難しいから読んでない。」と平然と答えているシーンを目にすると、ドッと疲れが出てしまう。
話を記事に戻すが、中村氏は世の中が「活字離れ」の方向に在るとした上で、その青年の読書が漫画だけという事に付いては「別にそれを悪いとは思わない。」とし、次の様に書いている。
*************************************
唯、「たまには小説とかノンフィクションとか、そういった文章にも触れた方が楽しいのに。」と勝手に思う。
僕は殆ど毎日、好きだから主節を読んでいるけど、たまには漫画も読むし、映画も沢山観る。自分の趣味や嗜好を限定するのは勿体無い様に思うのだ。ギャグ漫画を読んだ後に、結構、硬派な文学も読んでみる。そっちの方が自分の世界が広がるし、面白い人間になれるのではと考えたりもする。
付け加えるなら、小説でも音楽でも、皆が読んだり聞いたりしているものばかり選ぶのも、結構勿体無い気もする。皆と同じ感動を体験して皆と同じものを得るのも良いけど、人とは少し違ったものを自分で捜す、そうやって本当に自分に合うものに出会って、人とは違う世界を知るのも、楽しい事ではないかと思う。
*************************************
知識ばかりを詰め込み、実践が伴わない、所謂机上の空論者では困るが、様々なものに積極的に触れる事は非常に重要に思う。それが、本や音楽といった物に限らず、一見無駄と思われる事で在ってもだ。
学生時代、”遊び人”な連中を冷めた目で見ていた。「何て馬鹿な事をしているんだろう。」と。でも、そういった連中とこの年になって会うと、自分に比べて”人間的な幅”を感じる事が良く在る。勿論、遊び呆けている”だけ”だったり、未だにそれを引きずっている連中で在れば論外なのだろうが、遊びを上手く”人間的な魅力”に転じさせているので羨ましく思ったりもする。
世の中に、無駄な知識や経験(違法なものは別だが。)等無いのではないか?それなのに、「つまらないから。」とか「難しくて判らないから。」の一言で、その機会を自ら閉ざしてしまうのは、自分も勿体無い事と思う。
そういえば、自分がマスターズリーグ見ないのは「年寄りの冷水で、ご老体に鞭打って動いているのを見るのは痛々しい」って先入観からですが、Ginats-55さんはじめブログ記事を見ると、それはそれとして結構楽しそうですね。。。
今オフはぜひ観戦したくなりました。
元阪神ファンでしたが、パリーグを中心に見るようになって世界が広がりました。
あたかも新しい陸地を見つけたようです。
これは一例ですけど、少しでいいから見てみてそれで興味なければしょうがないですが、それで判断して欲しいものです。
そこに「大きなチャンス」があるかもしれないのに。
ただ、読むべきモノ、読んで楽しい読み物が減っているのも、また事実かと思います。
ハリウッドではリメイク・ブームだし、日本アニメの映画化権に法外な値段が付けらています。
もうハリウッドには「新しいヒーロー」を生み出す力は無くて、過去の栄光にすがっている訳です。
映画の都ですらこんな状況ですから、日本の若者ばかりを責めるのはどうかと思いますヨ。
考えてみたら現代はヒーロー不在の時代です。
活字離れに歯止めを掛けるには、若者が熱中するようなヒーローが必要なのではないでしょうか?
「学ぶ」と「思う」の片方が欠けたらだめで,両方あるから世界が広がるという話、漢籍ででてきますねえ。
しかし・・・そもそも今日びの若い子は、入試科目に無いからと漢籍に全く親しまないそうです。なんだか損をしてますよね(このネタは高校の授業で読んだ漢文です)
活字離れだけではなく,なんでも今までの自分のせまい生活体験だけで好悪を判断し,やってもみないうちから「無理」だの「関係ない」というてそれに触れる事をいやがる傾向が強く、そして、判断材料が身近な人間(自分と同調してくれる人間の話しか聞かないケースすらある)だけだったりするのですから。
ええ、若者が熱中するようなキャラクター、物理離れに歯止めをかけるためにも必要だと思ってます。
近頃の中高生は“本”は少し前と比べ結構読むようになってきたとも言われます。一因に「携帯のメール」があるとか。文字を使った(よく分からない絵文字もありますが)コミュニケーションに親しんでいる為、だそうです。本当ならちょっと意外ですよね。
唯、「つまらない」というの全く的外れでもない気がします。随分前にある評論家が新聞で「現在優れたクリエイターは小説家に少なく、寧ろ漫画家に多い」と言っていました。又今日世界各国で読まれている日本の漫画ですが、外国の人に「今の日本の漫画や漫画家を知っているか?」と訊いた場合と「今の日本の小説や小説家を知っているか?」と訊いた場合、どんな答えが返ってくるでしょう。恐らく、前者の方がより多くの名前、作品があがるのではないでしょうか。
それにそもそも本当に“活字離れ”しているのでしょうか。それは“文藝離れ”ではないでしょうか。「ライトノベル」の存在を完全に無視している様に思えてしまいます。あれは「文学」ではない、のかもしれませんが「小説」ですし「活字」です。イラストが多用されているからと言って漫画ではありません。書店に漫画のコーナーが必ずあると言っていいのと同じくらいライトノベルのコーナーもあり、そこでは多くの若者が書庫を見つめその中から小説を購入する人もいます。
なぜライトノベルは“活字”には入らないのでしょう。“活字離れ”という言葉は“文藝離れ”を認めたくない人達やライトノベルという比較的新しいジャンルが理解できない、しようとしない人達が現実を直視せずに言っているだけ、と言ってしまうのは果たして暴言なのでしょうか。
ブログとかもそうなんだが、若者達は活字に向いて来ているような気もするしないではないな。
紙というメディアでも無く、本というメディアでもない。PCの世界は其れこそ映像が溢れすぎて、我が頭の構造の手段、若しくは、訴えは、文字が一番手っ取り早いと、気がついてきたような気もする。もちろん絵画や音楽でもそうなんだが、一般若者ピープルとして訴えの手段は「活字が一番」気がついてきたと思える・・・今日この頃皆さんいかがお過ごしですか?(笑)
しかし、この女性は凄いな、ニュースにもなってるしなぁ。
まあ、この人の文面は、区切りが無く一気に読ませるんだが、、年寄りには、きついか。
でもなぁ、彼女の「五月の風」という、エッセイを読むと、和むわなぁ。
http://www.denpan.org/book/DP-2b24-542a-1/
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__1703547/detail?rd
んでもサ、活字に触れていないかとゆ~と、そうでもなくて・・・。
喫茶店や美容室に行けば雑誌があるし、携帯電話で小説もダウンロードできる・・・。
現代は「紙を消費する」より「電波を消費する」活字の方が人気あるんだと思いましゅ。
最近小学校などで授業前の読書運動が行われているようですが、こちらは自分の読みたい本を読むケースが多いと聞いてますので、本好きが増えることが期待できそうです。
あと、以前の若者はそんなに本を読んでたのかという疑問があります。どうも昔(戦前?)の大学生は皆ゲーテだのなんだのとか哲学書などを読んでたという幻想があるのか、また当時の大学進学率を考えればやはり大して本を読んでなかったはずだ、というつっこみをどこかで読んだことがあります。またベビーブームの頃に百科事典ブームがあり、その後広辞苑の出版がニュースと成ったりしたものの、いずれも現在ではPCや電子辞書に取って代わられ、この手の出版物がほぼ全滅状態にあるのも影響しているかもしれません。
この"活字"を新聞や雑誌とするなら若者に限らず明らかに活字離れは進んでいます。昨今はネットに取って代わられつつある週刊誌の売り上げの凋落が特に激しいようです。
日書連のページ
http://www.shoten.co.jp/nisho/bookstore/shinbun/view.asp?PageViewNo=4894
ここの全国書店新聞を読んでると出版業界は読者を消費者としてしか捕らえておらず、活字離れもしょうがないかなという気にもなります。
世の中の活字離れが進んでいると自分も頭の何処かで思ってはいましたが、携帯メール花盛りな事を考えると、必ずしも”文字離れ”ではない様な気もしますね。又、多くの人がブログを運営している現状にも、その思いが強まります。
何かで読んだのですが、日本人は文字で何かを書き残したいという思いが、他の人種よりも強いのではないかと在りました。そういった思いがDNAに刻み込まれているからこそ、”現状では”文芸作品に興味が湧かない人々が、ブログやライトコミック、携帯メール等、別の分野に代わりを求めているという事も言えるのかもしれないですね。
唯、”現状では”魅力を感じない文芸作品の類でも、年を経たり、状況が変わる事で、興味のベクトルが変わる事も在る訳で、「色々なモノに触れた方が面白いんだよ。と自らの経験(反省)からも言いたいです^^。
「文藝」とはなんでしょう。手元の辞書を引いた所、「言葉による芸術・文学」とありました。
giants-55さんの言葉に「成る程」と思ったのですが、一方でふと別の疑問が湧きました。
なぜ、「ライトノベル」は「文藝」ではないのでしょう。文藝作品が好きな若年層も少なくないですが恐らくそれ以上に彼らの支持を得ているだろうライトノベル。重ねて強調しますがライトノベルは「コミック」ではありません。「ノベル」です。内容事体は普通の小説と言っていいでしょう。特徴は「表紙や挿絵に漫画風のイラストが多用されている」事です。それ以外ははっきり言って普通の小説と変わりません。重ねて言いますが、中身は「小説」です。
文藝が「言葉による芸術・文学」であるならばライトノベルだって「文藝」と言えるのではないでしょうか。
“現状では”文藝作品を好まない人達に文藝作品を薦めるのは決して悪い事ではないと思います。しかしどうも“文藝離れ”を嘆く方々の中には(giants-55さんは違うでしょうが)ライトノベルを軽視、キツイ言い方をすれば軽侮している人もいる様に思えてしまうのです。
「色々なモノに触れた方が面白い」、「文藝作品も一度読んでみた方がいい」という意見が正論で頷ける半面、人の嗜好は十人十色ですし、そうした意見にはライトノベルと言う「自分達が理解できないモノ・興味ないモノ」を蔑視する感情がそれらの言葉に含まれてはいないか。そんな穿った見方をしてみたくなってしまいます。
ライトノベルは「純文学」ではないでしょうが「文学」ではあるように私は思います。時と共に人々の嗜好は移り変わります。登場時は流行曲だった歌も時が経てば懐メロになります。最新の歌が好きな人、古い歌が好きな人。ロックが好きな人、ラップが好きな人、演歌が好きな人。色々な音楽が好きな人がいるように、純文学が好きな人、海外文学が好きな人、ライトノベルが好きな人と色々な「文藝」が好きな人がいて当然ではないでしょうか。文藝作品を薦める事、は否定しませんがそこに「クラシックが歌謡曲より高尚」と考えるクラシックファンが歌謡曲が好きな人にクラシックを薦める、のと同じようなモノがあればそれは唯の傲慢になってしまいはしないでしょうか。
個人的にはライトノベルが若者に広く読まれているのに“活字離れ”と言われるのはとても不思議ですし、文藝作品が若者に余り読まれないとしても(それもややステレオタイプな見方な気がしますが)ライトノベルという「一種の大衆文学」は読まれているのですから、別にそれはそれでいいように思います。