1869年、戊辰戦争での敗戦により、江戸幕府は完全に崩壊した。戦いに勝利した明治政府がその後の国政を担う事になるが、従来の「国家の仕組み」がガラリと変わるという事で国内の混乱はなかなか収まらず、何とか落ち着きを見せたのは12年後の1881年に「国会開設の詔」が出された辺り。世の中の仕組みが大きく変わる際にはその混乱が終息する迄、斯くの如く時間が掛かるもの。旧体制の支配期間が長ければ長い程、長き時間を要するもの。
昨夏に政権交代を果たした民主党への風当たりが日増しに強くなっているが、「事業仕訳けや高校無償化、こども手当の実施」、「封印され続けて来た情報の開示」、「記者クラブの開放」等、その良し悪しは別にしても旧来の政権では出来なかった事を為せたのは事実で、個人的にはその点は評価している。実質的に一つの党があれ程迄長期間政権の座に在ったのだから、それを抜本的に変えるので在れば、生半可な時間が掛かる。「好い加減な政治を行えば、何時でも別の党に政権を奪われるという緊張感。」が必要で、その為には「二大政党制」乃至は「それなりの規模を各々が持つ複数政党制」が理想と考えているので、“この段階で”民主党自体の“全評価”を下すのでは無く(部分評価なら判るけれど。)、「政党を育てて行く。」という気持ちを国民が持つ事も重要ではないかと。
・・・と一応は“建前”を記したが、そうは言っても民主党の頼りなさを感じない訳では無い。「支持率の高さ=良い政治」を必ずしも表していない事は、「長期に亘って高支持率をキープした小泉政権が、この国のその後にどの様な陰を残したか?」を考えると理解出来るだろうけれど、鳩山政権の支持率低下が止まらないのは、「首相に指導力が感じられない。」という点に尽きるだろう。人間的には嫌いな部類では無い彼だけれど、指導力の無さや言葉の軽さには自分もプラス評価は出来ないし。
頼りなさを見せる民主党に対して、対抗馬たるべき自民党も又頼りない。だからこそ以前の記事でも書いた様に、漁夫の利を得んと(いう風にしか思えないのだが。)「ミニ政党」が矢鱈と結党されている。(「5年前の記事で懸念される点を挙げつつも、その行動力を評価した中田宏氏。」も新党結党者の一人だが、横浜市長としての前半は未だしも、後半は殆ど評価出来ない。自らが率先して開催した「開国博Y150」が余りの杜撰な計画も在って大赤字を出すと、その責任追及を恐れてか任期を約8ヶ月も残して市長職を辞した。「面倒な事は放り出してしまえば良い。」という思惑が透けて見え、そんな人間が幾ら国を憂う言動をした所で、全く説得力を持ち得ない。)ミニ政党乱立状態に在る我が国の政界だが、その“真打”と目されていた“舛添新党”が遂に結党されると言う。
新党と言っても、政界に於いて存在感を出し得ないままの「改革クラブ」の構成議員ばかりが並ぶ顔触れ。舛添氏と彼等の政策に合致する点が余り無い様にも感じられ、申し訳無いが「数合わせの為だけの新党」という感が否めない。
そもそも「国民的人気が非常に高い。」とされる舛添氏だけれど、以前から何度も書いている様に“評論家時代から”自分は彼を信用していない。「国民の為。」と声高に叫ぶも、実際には私利私欲ばかり最優先させ、「自分の手柄は自分の物。他者の手柄も自分の物。」という部分が露骨に感じられるからだ。実際問題、彼に近しい人間程(政治家や肉親等。)、彼に対する嫌悪感を強く表しているとも見聞する。又、厚生労働大臣時代に「国民年金の保険料を着服した社会保険庁職員は全員、刑務所に入らせる!」と言い放ったものの、その後は何もしなかった様に、「声だけはでかいけれど、結局は何もしない。」という面も彼には結構在ったりする。そういう点から、「何故彼が政治家として評価されているのか不思議。」という思いが自分には在るのだ。
新党名は「新党改革」になるそうだが、自分としては「舛添の舛添による舛添の為だけの党」とか、「自分さえ良ければ、他人なんかどうなっても構わない党」といった党名の方が良い様な気も。ハッキリ言ってこの新党には全く期待する物が無いのだけれど、唯「国会議員の数を大幅に減らす。」という政策を掲げるという話も在り、これが本当に実現出来るので在れば、応援するに吝かで無い。国会議員の数を大幅に減らそうと思えば、幾らでも出来た(出来る)筈の自民党や民主党が何も出来なかった(出来ないままでいる)のだから、実現出来れば高く評価しても良いので。
昨夏に政権交代を果たした民主党への風当たりが日増しに強くなっているが、「事業仕訳けや高校無償化、こども手当の実施」、「封印され続けて来た情報の開示」、「記者クラブの開放」等、その良し悪しは別にしても旧来の政権では出来なかった事を為せたのは事実で、個人的にはその点は評価している。実質的に一つの党があれ程迄長期間政権の座に在ったのだから、それを抜本的に変えるので在れば、生半可な時間が掛かる。「好い加減な政治を行えば、何時でも別の党に政権を奪われるという緊張感。」が必要で、その為には「二大政党制」乃至は「それなりの規模を各々が持つ複数政党制」が理想と考えているので、“この段階で”民主党自体の“全評価”を下すのでは無く(部分評価なら判るけれど。)、「政党を育てて行く。」という気持ちを国民が持つ事も重要ではないかと。
・・・と一応は“建前”を記したが、そうは言っても民主党の頼りなさを感じない訳では無い。「支持率の高さ=良い政治」を必ずしも表していない事は、「長期に亘って高支持率をキープした小泉政権が、この国のその後にどの様な陰を残したか?」を考えると理解出来るだろうけれど、鳩山政権の支持率低下が止まらないのは、「首相に指導力が感じられない。」という点に尽きるだろう。人間的には嫌いな部類では無い彼だけれど、指導力の無さや言葉の軽さには自分もプラス評価は出来ないし。
頼りなさを見せる民主党に対して、対抗馬たるべき自民党も又頼りない。だからこそ以前の記事でも書いた様に、漁夫の利を得んと(いう風にしか思えないのだが。)「ミニ政党」が矢鱈と結党されている。(「5年前の記事で懸念される点を挙げつつも、その行動力を評価した中田宏氏。」も新党結党者の一人だが、横浜市長としての前半は未だしも、後半は殆ど評価出来ない。自らが率先して開催した「開国博Y150」が余りの杜撰な計画も在って大赤字を出すと、その責任追及を恐れてか任期を約8ヶ月も残して市長職を辞した。「面倒な事は放り出してしまえば良い。」という思惑が透けて見え、そんな人間が幾ら国を憂う言動をした所で、全く説得力を持ち得ない。)ミニ政党乱立状態に在る我が国の政界だが、その“真打”と目されていた“舛添新党”が遂に結党されると言う。
新党と言っても、政界に於いて存在感を出し得ないままの「改革クラブ」の構成議員ばかりが並ぶ顔触れ。舛添氏と彼等の政策に合致する点が余り無い様にも感じられ、申し訳無いが「数合わせの為だけの新党」という感が否めない。
そもそも「国民的人気が非常に高い。」とされる舛添氏だけれど、以前から何度も書いている様に“評論家時代から”自分は彼を信用していない。「国民の為。」と声高に叫ぶも、実際には私利私欲ばかり最優先させ、「自分の手柄は自分の物。他者の手柄も自分の物。」という部分が露骨に感じられるからだ。実際問題、彼に近しい人間程(政治家や肉親等。)、彼に対する嫌悪感を強く表しているとも見聞する。又、厚生労働大臣時代に「国民年金の保険料を着服した社会保険庁職員は全員、刑務所に入らせる!」と言い放ったものの、その後は何もしなかった様に、「声だけはでかいけれど、結局は何もしない。」という面も彼には結構在ったりする。そういう点から、「何故彼が政治家として評価されているのか不思議。」という思いが自分には在るのだ。
新党名は「新党改革」になるそうだが、自分としては「舛添の舛添による舛添の為だけの党」とか、「自分さえ良ければ、他人なんかどうなっても構わない党」といった党名の方が良い様な気も。ハッキリ言ってこの新党には全く期待する物が無いのだけれど、唯「国会議員の数を大幅に減らす。」という政策を掲げるという話も在り、これが本当に実現出来るので在れば、応援するに吝かで無い。国会議員の数を大幅に減らそうと思えば、幾らでも出来た(出来る)筈の自民党や民主党が何も出来なかった(出来ないままでいる)のだから、実現出来れば高く評価しても良いので。
人気ではなく、ただたんに知名度があるというだけではないでしょうか。
知名度=人気ではないように思うのですが。
単純に「知名度の高さ」から、「首相に相応しい人」として舛添氏の名を挙げておられる方も居るとは思います。又、「声高に主張をしているので。」という理由も在るでしょうね。唯、「主張も大事だけれど、実際にその人物が“これ迄に”何をして来たかを確認する。」というのも重要。舛添氏が何もしていないとは言わないけれど、評論家時代より「有言不実行さ」が目立つ人物の様に自分は感じているし、本来は「国民を最優先すべき立場」の筈の政治家としては、彼の様に「自分さえ良ければ」という姿勢が露骨に感じ取られてしまう人が、その政治家のトップたる首相に相応しいのかという気がしています。
一昔前、「首相に相応しい有名人は?」といったアンケートが在ると、ビートたけし氏の名前が上位に挙がったりしました。個人的に芸人としての彼は大好きだけれど、でも首相、と言うよりも政治家としては彼を推す気にはなれない。その立場立場を国民の側がしっかり考えないと、与野党問わず「単に有名だから。」という理由だけで有名人を出馬させる今のスタイルは、なかなか変わらないでしょうね。
だと思っています。
国会で民主党の大臣が遅刻したときに
「参院軽視だ(違ってるかも)」
と大声を出しましたが、
あのとき「ここぞとばかりのパフォーマンス」と見ました。
この場合、やんわりと大人の対応(指摘はするんですよ)をしたほうが、
本人たちは悪いとわかってるのだから、
対国民としてもそのほうが印象もいいと思うんですけどね。
また彼の場合、新党を作って代表になるよりも、
野党自民党にいて政権を批判し対案を出していくほうが、今後の政治家としての彼の進み方としては良い選択と思われます。
支持母体がなく浮動票頼みの政治家なので、この時期に自民党から飛び出しての、新党はないでしょう。
どうも彼は「自民党にいづらくなった」ということなんでしょうか・・・
参院選に向けて、まだまだ動きがあるんでしょうね
舛添氏に関するハムぞー様の御見立て、全く同感です。国民受けするフレーズを上手く発信する能力は非常に高いと思うし、個性の在る人物なのは認めるけれど、どうにも「自分さえメリットを享受出来れば、他の人間なんか知ったこっちゃない。」というのが露骨に見えるし、有言不実行さも鼻に付くんですよね。だからこそ記事でも触れた様に、彼に近しい人間程彼に対して強い不信感を持ってしまう。実母の介護体験を良く口にされていますが、彼の姉達は「介護は自分達に押し付けて何もしなかった癖に、自分に都合の良い時だけ『介護体験が在る。』とアピールしている。」といった批判を週刊誌上でしていましたし。
常にカメラを意識した言動で、仰る様に民主党の大臣が遅刻した際もそれを強く感じました。あれが石破氏とかだったら、もっと大人の対応をしたでしょうね。その方が、見ている側も「大人だなあ。」と感服するだろうし。
自身にとって都合の良い時に国民受けしそうな批判を散々して来たけれど、好い加減その“鍍金”が剥げかかって来てしまい、加えて自民党に居場所が無くなってしまった事から、二進も三進も行かなくなっての離党という感じが自分もします。新党結成すると数億円の費用が掛かると言われますし、この段階で新党を作っても政党交付金は入らない。だったら既存の政党に入り、党名を変えた方が“御得”という事なのでしょうが、そもそも改革クラブ自体がポリシーも糞も無い様な寄せ集め所帯だったのですから、それが水増しされただけって気がするんですけどね。
今日の会見ではもっと独創的な政策を掲げるのかと思いきや、結局は色んな政党の政策の良い所取りしているだけの様な内容で、何とかの一つ覚えの様に「仮想敵の構築&危機感の煽り立て」に終始していたのは残念でした。
見方を変えれば、地道に努力する政治家より、マスコミ受けするパフォーマンスが得意な人物や、組織票に乗っかるのがうまい利益誘導型の人物が当選しやすいこの国の選挙制度で、単純に国会議員を減らせば、枡添ファミリーや小沢ファミリーだけが残るような気がしないでもないんだけれど。
「政治には金が掛かる。」と良く言います。「遣り方さえ上手ければ、そんなに掛かる物では無い。」のか、それともやはり「政治には金が掛かる。」のか、その辺は素人の自分には判り様も無い訳ですが、普通に政治活動をするのにもそれなりの費用が掛かるというので在れば、国が個々の政治家にそれなりの費用を払うのは致し方無いと考えます。それだけ政治家って、“本来は”重要な仕事を担っている筈だから。
1人の政治家には最低1億円の国費が費やされていると言われているけれど、訳の判らない連中ならばごっそりと辞めて貰い、その分をまともな政治家の為に費やす方が良い。そういう意味でも政治家の定数をドカンと減らして欲しいと願っているのですけれども、悠々遊様が指摘されている様に「地道に努力する政治家より、マスコミ受けするパフォーマンスが得意な人物や、組織票に乗っかるのが上手い利益誘導型の人物が当選し易くなるのではないか。」という懸念は確かに在りましょうね。どれだけ政治制度を変えようとも、結局は一票を投じる国民個々の意識が変わらないと、従来と全く変わらない状況が続くという事。
それにしても「新党改革」が参院選比例代表の略称を「ますぞえ新党」で提出しようとしていたとか。公職選挙法に抵触し兼ねないという事で、結果的には断念した様ですが、何ともあざといネーミング。冗談で「新党名は『舛添の舛添による舛添の為だけの党』にした方が良かったのでは?」と書いたのですが、どうやら彼等のオツムの中身も、その冗談レベルだった様です。
「国会議員の定数をドンと減らす事で、国民個々がもっと慎重に票を投じる様になるのではないか。」という思いも在ります。余りにも議員数が多い事で、「それならば誰に投票した所で、大した影響は出ないだろう。」という軽い気持ちが生まれてしまっているのではないかと懸念しているからですが、上記した様に「国民個々の意識が変わらないと、議員数を減らそうが政治は良くならない。」というのは在りますね。
有権者の意識が変わらなければ政治家は変わらない。政治家が変わらなければ政治制度は変えられない。政治制度が変わらなければ有権者の政治への意識も変わらない。
これでは堂々巡りですね。
たとえば、選挙が始まれば、ただただ候補者の名前を連呼するだけの選挙カーが、朝から晩まで走り回っていますね。私にとっては反発すら覚えるこの行為は、無駄の最たるものと考えていますが、多くの政治家は効果のある宣伝行為だと考えているようです。名前の連呼による意識下への刷り込みに一定の効果があり、知名度アップに役立つのかもしれません。
テレビでの政見放送や、新聞などに候補者略歴は載りますが、候補者の一方的主張や、読んでも退屈で意味の分からない略歴では、その候補者の思想信条や実力・実行力のほどは計れません。
そこで素人考えながら、意識改革にこんな方法はどうでしょうか。選挙候補者通信簿制度。
選挙区の重なる候補者を一堂に集め、主要テーマ毎に各30分程度テレビの前で討論させる。もちろんライブで。で、その中継を見ながら視聴者が電話などで採点していきます。相手の話を聴いた上で反論しているか、ただ一方的にわめきたてているだけか。有権者を意識してのパフォーマンスか、これまでの活動と一貫しているかを、随時司会者が引き出していく。
ここまでは、ニュースバラエティ番組でよく使っている手法のパクリですね。番組をうまく構成出来れば下手なドラマより視聴率を稼げますよ。
さて、ここでの採点を、実際の投票での得票に按分加算(減算)することで反映させます。選挙カーの上で手を振ったり、握手を求めている暇があったら、テレビ討論で高得点が得られるよう、政治家力を磨くようになるのでは?
組織の締め付けや知名度でなんとなく投票しようと思っていた候補者が、案外無能だったり、偏狭な思想の持ち主だったりと分かるかも。
もちろんこの方法にも問題点はいくつかあります。政治討論をショー化することになるので、放送局の意向や司会者の思想信条、能力によって、特定候補に有利に誘導されはしないかとか。どこか見えないところでコントロールされ、実際とは違った採点が出ないかとか。
ネット上では政治家個々の言動を評価する“通信簿サイト”が存在していますね。又、今夏の参院選から「ネットでの選挙運動解禁」に踏み切るという話も在り、政治家&国民双方がネットをより以上に意識した時代が到来しそうです。
テレビ(乃至はネット)を用いた選挙候補者通信簿制度というのは、面白い案だと思います。質疑では多くの耳目を引く様な喋りを見せる“小泉Jr.”。あの若さであれだけ堂々と喋れるのは正直凄いと思うけれど、如何せん自身の「対案」が無い。あの質疑の為、事前にかなりの時間を掛けて、“参謀”と練習を重ねているという報道も在りましたが、真偽は別にして聞き手を「おっ、凄いなあ。」と思わせる“だけ”ならば、“はったり力”を磨きさえすれば済むとも言え、だからこそ本当の姿が垣間見えるで在ろう試みは一考に値しましょうね。
唯、悠々遊様も指摘されている様に「妙なショー化」等の問題点も在る。特に某大物司会者の様に、露骨に「自身の支持する政治家が主張している方向に、流れを無理無理に持って行こうとする。」ケース等は、危うさを感じますし。