日本にとって“第二次世界大戦が終わった日”は、正確に言えば「日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。」で在る「1945年9月2日」なのだろうけれど、一般的には「玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日。」で在る「1945年8月15日」という事になろう。其れから今日で、72回目の夏を迎える。
今日の日を「終戦の日」と呼ぶのか、又は「敗戦の日」の呼ぶのかは、人其れ其れだろう。何方の呼び方をし様が個人の自由とは思っているけれど、“異常な程に”「終戦の日」という呼び方に固執している人の中には、「日本が戦争に負けたというのは、自虐的で許せない!」と主張するケースが目立つ。
過去に何度か書いている事だけれど、「“明らかに”事実では無い事迄『日本は、こんな悪い事をした。』と喧伝する様な“自虐史観”は自分も反対だが、「日本にとって都合の良い事柄は、事実か否か無関係に『正しい。』とする一方、日本にとって不都合な事柄は、仮令事実で在ったとしても『誤り。』とか『捏造。』とがなり立てる“何でも彼んでも自虐主観と主張”というのも、同様に反対。」というのが自分のスタンス。
「日本が戦争に負けたというのは、自虐的で許せない!」という理由“だけ”で「終戦の日」という呼び方に固執している人達は、“何でも彼んでも自虐主観主張組”だと思う。日本のみならず世界的に、そういう“度を過ごした”自国第一主義が広がりを見せているけれど、そういう思考が広がれば広がる程、我々人類は戦争に近付いて行き、逆に減じれば減じる程、戦争の脅威から解放されるだろう。
平和な日々がずっと続きます様に。
戦争を否定するときでも、戦争の実態を多くの人が「被害者」の側から語り、「加害者」側からの実態を語りたがらないのも同様に、人間心理の弱さなのでしょう。
「南京大虐殺」や「慰安婦強制連行」等、日本が加害者とされる件では、証拠となる資料が無い、証言が食い違うということで、あった、なかったといまだに尾を引き論争が絶えません。
本当のところはどうなのか、結局やぶの中という感じですが、「森友」や「加計」での政府の対応を見ていると、敗戦直前のどさくさに紛れて、都合の悪い資料はすべて処分し、関係者は戦犯責任を恐れて口をつぐんだ、との疑念もぬぐいきれません。
かつての皇軍が悪逆非道とは無縁の聖戦士集団だったとは到底信じられませんから。
「不都合な事実から目を背けたい心理が働く。」、此れは大なり小なり、人間が持つ所だと思います。斯く言う自分も、そういう部分が無いとは思わないし。
でも、仮令不都合な事実に心理的抵抗が在ったとしても、事実で在る以上は確りと認めるのが、真面な人間で在り、其れが出来ないのは“人として未成熟”で在ると言わざるを得ない。不都合な事実を様々な言い訳を以てして隠蔽し様とするのは、不要な諍いを生み出す要因になってしまう。
過去に何度か書いている事ですが、「戦争というのは、何れだけ“敵”を殺すかが高く評価されるという、極めて異常な世界。」だと思っています。其の「敵」をどう解釈するかは人によって判断が分かれる所でしょうが、少なくとも「日常の常識が罷り通る世界では無い。」のは確か。
そんな戦争下、日本だけでは無く、戦争に関わった国々では何処でも、大なり小なり非人道的な事が行われて来たのは否定出来ない。兎に角、日常の常識で捉える事が出来ない、異常な世界に在った訳ですから。
でも、だからと言って、戦争が終わった段階に在っては、非人道的な行為を肯定的に捉えるのは、人として在ってはならない事だと思っています。自虐過ぎる必要は無いけれど、遣った事は遣った事として真摯に受け容れる。今後同じ過ちを繰り返さない為にも、黙りを決め込んだり、況してや事実を「捏造だ!」なんぞと否定するのは愚かしい事。