「Dead Ball(デッド・ボール)」は「死球」とも呼ばれるが、実は「Dead Ball」なる呼称は和製英語で、本場のメジャー・リーグ(「メイジャー・リーグ」と、灰汁の強い発音をしていたパンチョ伊東氏が懐かしい。)では「Hit by Pitch」と呼ぶのだそうだ。文字通り「投球(Pitch)が当たる(Hit)。」という訳だが、「当たり所が悪ければ、死に到る可能性も在る投球。」という意味で、「Dead Ball」乃至「死球」という呼称は正鵠を射ていると思う。
「死球」と言って一番に思い浮かべるのは、1970年に起きた「田淵幸一選手への死球」。自分はリアル・タイムで其のシーンを見てはおらず、後になって「こんな事が在った。」というのを本で知ったのだが、内角の速球が田淵選手の左側頭部に当たり、当時はヘルメットに耳当てが付いていなかった事から、彼の左耳からはドッと血が溢れ出た。駆け付けた選手達は、耳から血を流し乍ら昏倒する田淵選手を見て、「死んでしまうのではないか?」と思ったとも。幸いにして彼は甦ったけれど、以降は難聴等の後遺症に苦しめられたと言われている。
事程左様に、死球は「選手生命」どころか「本当の生命」さえ奪い兼ねない「危険球」。「頭以外の場所に、意図してぶつけていた。」等と告白した投手も居たが、ギリギリのコースを突くのは良いけれど、態とぶつけるというのは控えて貰いたいものだ。
先達て、今村猛投手(カープ)の投じた速球が長野久義選手(ジャイアンツ)の左頬を直撃し、長野選手が其の儘病院に担ぎ込まれるという事が在った。精密検査の結果、左頬骨に皹が入っている事が判明するも、脳震盪等の後遺症が残る症状が見られなかったのは不幸中の幸い。死球を与えてしまった今村投手は当然乍ら態とぶつけた訳では無いし、謝罪の電話をして来た彼に対して、「御互いに全力で遣った結果。気にしないで良い。」と長野選手が逆に励ましたそうで、彼も救われた事だろう。双方にとって「死球」が悪い方向に向かわなかったのは、本当に良かった。
週刊文春に「野球の言葉学」(取材及び文:鷲田康氏)というコラムが連載されおり、8月25日号では「(頭に投球が向かって来る)イメージは在ります。」というタイトルで、長野選手の受けた死球に付いて触れている。と言っても今村投手を批判している訳でも何でも無く、「此の死球こそ、意外と長野が大きく飛躍する切っ掛けになるかもしれない。」と、「災い転じて福と為す」的な見方をしているのが興味深かった。
「打席に入ったら、マウンドから2本のラインをイメージすべし。1本は外角低め一杯のストライク・ゾーンへのライン。そしてもう1本は自分の頭に向かって来るラインで在る。」というのは、長嶋茂雄氏が「打者の打席での心得」として常々主張して来た事なのだとか。打者にとって最も大事なのは外角低めのストライクの見極めと、そしてもう1つがビーン・ボールを避ける技術で、「頭のラインから内角にボールが来た時には、即座に避ける準備をする。其れ位しなければビーン・ボールは防げません。」というのが長嶋氏の考え。
死には到らなかったものの、頭に死球を受けた事で深刻な後遺症に悩まされる選手は過去にも居たし、重いケースでは鬱病の発症等も報告されているとか。ドラゴンズの落合博満監督やアスレチックスの松井秀喜選手も長嶋氏と同様に、「自分の頭に向かって来るボールの軌道を描いて打席に立つ。」といった話をしていたそうで、「必然的に内角を深く抉られるケースが多い好打者は、其れ其れが其の危険回避のルーティンを持っているという事なのだ。」と鷲田氏は記している。
長野選手は内角を意識し過ぎる余り、ベース板から極端に離れて立つ癖が。其の事で、弱点は「外角に逃げて行く変化球」と指摘され続けて来たのだが、今回顔面に死球を受けた事で、「『頭に向かって来るライン』をしっかりイメージ出来る様になったのではないか?」と鷲田氏は指摘。「頭へのラインさえしっかり作れれば逆に、内角球はへっちゃら。そうなれば外角のラインに思い切って踏み込む事も出来る様になるんです。」という長嶋氏の言葉を紹介した上で、「此の死球こそ、意外と長野が大きく飛躍する切っ掛けになるかもしれない。」と“予言”しているのだが、果たして「災い転じて福と為す」となるのかどうか。期待して、長野選手を見守って行きたい。(今村投手も頑張れ!)