母が子供の頃、夕方になると良く耳にしたのが、「驢馬の小父さん チンカラリン♪」で始まる「パン売りのロバさん」【曲】だとか。驢馬や馬に荷車を引かせ、町々にパンを売りに来た業者、通称“驢馬のパン”。昭和6年、札幌で「ロバパン石上商店」が、驢馬に荷車を引かせてパンを引かせてパンを売る方法を始めたのが、“驢馬のパン”の嚆矢だったと言う。今でも京都等、一部の地域で“驢馬のパン”は存在している様だが、自分は実際に目にした事は無い。
自分が子供の頃の光景で言えば、夕方になると「ピ~プ~。」という喇叭の音共に遣って来る豆腐売りは忘れられない。母から頼まれ、小銭と鍋を持って、良く豆腐を買いに行った物。12年程前から街中で豆腐売りを見掛ける様になったけれど、昔程の頻度では無い。
驢馬のパンや豆腐売り等、「主に昭和の時代に見られた庶民の仕事で、現在は消えてしまった物、消えつつ在る物、そして生業としては消えてしまったが、地域のイヴェント等では行われている物。」を集め、紹介しているのが「イラストで見る 昭和の消えた仕事図鑑」(著者:澤宮優氏)で在る。
豆腐売りの他、灯台職員(灯台守)、氷屋(氷売り)やチンドン屋、傷痍軍人の演奏、御坊、そして貸本屋等、自分がリアル・タイムで知ったいた職業も載っているが、リアル・タイムでは知らなかった職業や全く知らなかった職業も結構在った。其れ等の中から、幾つか紹介させて貰う。
*********************************
① 街角メッセンジャー
公衆電話が普及していない時代、手紙やメッセージを届けていた。駅前で小荷物を預かって運搬する等、便利屋の様な仕事も請け負った。
昭和20年代の前半、新橋駅前に「よろず承り屋」が誕生。急用で何とかして相手に伝言を届けたい時、承り屋で手紙等の伝言を渡すと、承り屋が自転車に乗って、相手方に届けてくれた。電話が普及した事で、昭和30年代以降には消えて行った。
電信が発達していなかった頃、新聞社では伝書鳩に原稿を付けて地方のスクープを東京の本社に送稿していた。新聞社で伝書鳩を育てる「伝書鳩係」の多くが、「編集局部鳩室」等に所属。
野鳥に襲われ、傷付き乍ら戻った鳩も居り、伝書鳩の平均寿命は5~6年と短命だった。(鳩の平均寿命は10年程。)昭和30年代半ばには、伝書鳩は使われなくなった。
③ 御化け暦売
旧暦と新暦を併記した暦を作って売る商売。伊勢神宮司庁発行の新暦に対し、所在を隠した版元(御化け)が、非合法で旧暦併記の暦を作って売った事から、こう呼ばれる様に。
戦前、戦中迄は歳末の露店で御化け暦を売る光景が見られたが、昭和20年になると、暦も一般の冊子と同じく合法的に出版出来る様になり、御化け暦という名は消滅。
戦中迄天皇は現人神で在り、神様として扱われていた。天皇の写真は「御真影」と呼ばれ、学校の奉安殿や家庭の床の間に飾られた。天皇の写真は人気が在り、民間業者が政府黙認の下で販売していた。
販売のスタイルは様々だが、一番多かったのは、リヤカーに額入りの天皇の写真を並べ、全国各地の家庭を売り歩く行商。一般の行商人と異なるのは、売る人間がきちんとした背広か着物を着ていた点。天皇の写真を売るという事で、威厳を保つ必要が在った事から。
⑤ テン屋(店屋)
煮魚や蒲鉾等、副食だけを売る飲食店。主食は、客が持参。行商や労働者等が、移動先で利用。「煮売り屋」とも言う。都市では、飯も提供する「一膳飯屋」となった。
⑥ 門付け芸人
人家の門前で芸を演じ、銭を乞う仕事。正月の獅子舞、猿回し、節分の厄祓い、歳末の鉢叩等。元々、芸を行う人は神様で、門毎に祝福を受けるという信仰から生まれた。昭和40年代前半迄、良く見掛けられた。
⑦ 羅宇屋
「羅宇」とは、刻み煙草の喫煙用道具で在る「煙管の煙道(竹筒)」の事。竹で作られていたので、割れたり、脂が溜まると羅宇屋が分解したり掃除したり、取り替えたりした。煙管の修繕屋で在り、「ラオ屋」とも呼ぶ。
紙巻き煙草の普及により、煙管を使用する人が激減。昭和30年代後半は都内でも数軒に減り、平成12年には最後の羅宇屋が廃業するも、近年、数人が都内で復活させているとか。
⑧ バタ師
個人で行う拾い屋で、塵箱の中を漁ったり、路上の物を拾う。路上生活者の最後の生活手段。彼等は背中に屑籠を背負って、町で襤褸屑や金物を拾い集め、問屋に売った。
⑨ 淘げ師
川や溝に入って泥を掬い、貴金属や硝子等、金目の物を拾って古物屋に売る商売。拾い屋の一種。戦後、朝鮮戦争で景気が良くなって物資が豊かになると淘げ師も増えたが、戦後の復興が進み、川も整備される様になると、淘げ師の活動の場は無くなった。
⑩ つぶ屋
詐欺商売の1つ。主人が不在な昼間の時間帯を狙って、郊外のサラリーマン家庭を訪問。失業したサラリーマンを装い、金を恵んで貰う。「会社が潰れた。」と口にする手口から、「つぶ屋」と呼ばれた。
不況により大学卒業者の就職率が3割に迄落ち込み、“失業”という言葉が流行った昭和6年頃、つぶ屋は登場したとされる。
*********************************