62回目の終戦記念日を迎えた昨日、小泉純一郎前首相を始めとし、50人程の国会議員が靖国神社に参拝した。諸々の状況を鑑み、今年は安倍晋三首相及び現職閣僚全員が参拝見送りを表明していたが、結果的に高市早苗少子化担当大臣が現職閣僚では唯一、この日の参拝を決行。「私は1人の日本人として国会議員として、現在は閣僚だが、折に触れてたった1つの大切な命を国家の為に捧げられた方々に感謝の思いを捧げたいし、その御霊が安らかで在る様、御祈りしたいと思っている。」というのが参拝の理由。そして「閣僚が靖国神社に行く事を、外交問題にしてしまう勢力が在る事を残念に思う。」というコメントを残した。
以前にも何度か書いているが、”一個人が”戦没者に対して哀悼の意を表するのは自然な事だし、その事自体を非難する気持ちは無い。唯、靖国神社の性格を考えると、終戦記念日という日を”わざわざ選んで”、首相や現職閣僚が此処を参拝するというのは個人的にどうかと思っている。対外のみならず*1、国内ですら首相等の”この日”の参拝に疑問&不快感を持つ人々が少なくない中で、敢えて参拝する事がどうしても望ましいとは思えないからだ。
真に戦没者の御霊を悼む気持ちが在るのならば、何時でも何処の場所でも手を合わせる事は出来る。一般人なら話は別だが、特別な立場の人間(特別な立場の人間は一般人が享受し得ない”特権”を有する代わりに、一般人には無い”制約”を受けるのは当然だと思う。都合に応じて「一般人の顔」と「政治家の顔」を使い分ける輩は卑怯ではないか?)がわざわざ8月15日を選んで、それも靖国神社を訪れるというのは、「日本遺族会からの票欲しさ。」や「マスメディアに露出して、国民にアピールしたい。」という”下心”をどうしても感じてしまう。(昨日、靖国参拝をした国会議員の内、一体どれ程の人間が”無名戦没者達が眠る”千鳥ケ淵戦没者墓苑”にも”足を運んだのだろうか?真に戦没者を悼む気持ちが在るならば、最寄り駅で言えば靖国神社と同じ千鳥ケ淵戦没者墓苑を”当然”その日に訪れている筈。よもや「無名戦没者なんか知ったこっちゃない。」とか、「マスメディアが来ない(又は少ない)千鳥ケ淵戦没者墓苑なんか行ってられるか。」なんて思いは無いとは思うが。)
外圧に阿る必要は全く無いが、わざわざ”この日&この場所”に参拝し、国益を生み出すとも思えないいざこざを生じさせる必要は無いだろう。ましてや上記した様に、国内にですら首相等の”この日&この場所”への参拝には疑問&不快感を持つ人々が少なからず居るのだから、余計にそう思う。
朝青龍問題が「外国人への差別問題」、延いては「外交問題」に掏り替えらてはならない様に、靖国参拝が外交問題として利用されてはならないと自分も思う。しかし現役の大臣という特別な立場の高市さんが、”この日&この場所”をわざわざ選んで参拝したという事は、自らが外交問題化させてしまったと言えるのではないか?どの様な人間で在れ、戦没者の御霊を自身に利する為の手段として利用する事だけは止めて貰いたい。
*1 所謂「右翼」だ「左翼」だと称される人々の中に良く見られる極端に偏った思想&信条には共感出来ないし、嫌悪感すら覚える事がまま在る。そんな自分だが、新右翼「一水会」の顧問・鈴木邦男氏の意見には頷ける点が結構多い。昨日の東京新聞に彼の対談記事が載っていたのだが、特に印象に残ったのは次の発言。
「今はもっともっと謙虚な日本で在る可きだと思います。アジアの皆様に御迷惑を掛けて申し訳在りませんでした、独立は皆様の努力の結果です、という位の謙虚さが在って良い。そうで無ければ左翼の自虐史観の反動で、全てが正しかった事になってしまう。その謙虚さこそが、本来の日本主義だという気がしますね。こういう事を言うと僕も仲間内から批判されるんです。でもやはり、中国進出や朝鮮半島支配は間違っていたと思いますよ。事実をはっきりと認めた上で、それでも日本が好きだと言い、これからの事を考える必要が在る。右派系の人達の声が大きくなって、平和の理想や夢を語る事自体が犯罪の様な風潮になっているのは困る。」
以前にも何度か書いているが、”一個人が”戦没者に対して哀悼の意を表するのは自然な事だし、その事自体を非難する気持ちは無い。唯、靖国神社の性格を考えると、終戦記念日という日を”わざわざ選んで”、首相や現職閣僚が此処を参拝するというのは個人的にどうかと思っている。対外のみならず*1、国内ですら首相等の”この日”の参拝に疑問&不快感を持つ人々が少なくない中で、敢えて参拝する事がどうしても望ましいとは思えないからだ。
真に戦没者の御霊を悼む気持ちが在るのならば、何時でも何処の場所でも手を合わせる事は出来る。一般人なら話は別だが、特別な立場の人間(特別な立場の人間は一般人が享受し得ない”特権”を有する代わりに、一般人には無い”制約”を受けるのは当然だと思う。都合に応じて「一般人の顔」と「政治家の顔」を使い分ける輩は卑怯ではないか?)がわざわざ8月15日を選んで、それも靖国神社を訪れるというのは、「日本遺族会からの票欲しさ。」や「マスメディアに露出して、国民にアピールしたい。」という”下心”をどうしても感じてしまう。(昨日、靖国参拝をした国会議員の内、一体どれ程の人間が”無名戦没者達が眠る”千鳥ケ淵戦没者墓苑”にも”足を運んだのだろうか?真に戦没者を悼む気持ちが在るならば、最寄り駅で言えば靖国神社と同じ千鳥ケ淵戦没者墓苑を”当然”その日に訪れている筈。よもや「無名戦没者なんか知ったこっちゃない。」とか、「マスメディアが来ない(又は少ない)千鳥ケ淵戦没者墓苑なんか行ってられるか。」なんて思いは無いとは思うが。)
外圧に阿る必要は全く無いが、わざわざ”この日&この場所”に参拝し、国益を生み出すとも思えないいざこざを生じさせる必要は無いだろう。ましてや上記した様に、国内にですら首相等の”この日&この場所”への参拝には疑問&不快感を持つ人々が少なからず居るのだから、余計にそう思う。
朝青龍問題が「外国人への差別問題」、延いては「外交問題」に掏り替えらてはならない様に、靖国参拝が外交問題として利用されてはならないと自分も思う。しかし現役の大臣という特別な立場の高市さんが、”この日&この場所”をわざわざ選んで参拝したという事は、自らが外交問題化させてしまったと言えるのではないか?どの様な人間で在れ、戦没者の御霊を自身に利する為の手段として利用する事だけは止めて貰いたい。

*1 所謂「右翼」だ「左翼」だと称される人々の中に良く見られる極端に偏った思想&信条には共感出来ないし、嫌悪感すら覚える事がまま在る。そんな自分だが、新右翼「一水会」の顧問・鈴木邦男氏の意見には頷ける点が結構多い。昨日の東京新聞に彼の対談記事が載っていたのだが、特に印象に残ったのは次の発言。
「今はもっともっと謙虚な日本で在る可きだと思います。アジアの皆様に御迷惑を掛けて申し訳在りませんでした、独立は皆様の努力の結果です、という位の謙虚さが在って良い。そうで無ければ左翼の自虐史観の反動で、全てが正しかった事になってしまう。その謙虚さこそが、本来の日本主義だという気がしますね。こういう事を言うと僕も仲間内から批判されるんです。でもやはり、中国進出や朝鮮半島支配は間違っていたと思いますよ。事実をはっきりと認めた上で、それでも日本が好きだと言い、これからの事を考える必要が在る。右派系の人達の声が大きくなって、平和の理想や夢を語る事自体が犯罪の様な風潮になっているのは困る。」
以前にも何度か記していますが、当ブログでは“原則的に”頂戴した書き込みは全て承認(表示)しております。それは私見への反論&異論を問わずです。「原則的に」と特記したのは、「単に感情剥き出しなだけの、全く“論”の無い内容。」や「(コメントを寄せて下さった)特定個人への侮蔑。」、「明々白々に違法な書き込み。」、「記事とは全く無関係な商売目的の書き込み。」等、一般的に「これは載せるべきでは無い。」と考えた物は削除させて貰っています。とは言え、これ迄にそういったケースは殆ど無いのですが。
今回のUnknown様の書き込み、「馬鹿」という言葉が正直引っ掛かりはしたのですが、特定の相手を侮蔑したと必ずしも言えない(考え方によっては、様々な立場への批判とも言えるかなあと。)し、基本的には「議論する上では、最低限知っておかなければならないルールが在る。」という趣旨での書き込みと判断しましたので、そのまま承認する形を採りました。
仰る事は理解出来るものの、出来ましたら今後は表現に留意して戴けると幸いです。(斯く言う自分も「馬鹿の一つ覚えの様に」等、その手の表現は良く使っているので、余り強くは言えませんけれども。
今後とも何卒宜しく御願い致します。
馬鹿は「政教分離」の意味を辞書で調べ、民主主義におけるその意義を考えろ。
そのくらいのことは馬鹿でもできるだろう。
型(かた)からというか一応ポーズだけは本当の「保守」を始めようという政治家が多い。
けれども憲法改正がまず先にあるべきで、平和主義をうたっている以上、靖国参拝はただのポーズだけ、型だけにおわるのは目に見えていると思います。
戦没者の御霊に哀悼の意を表したいという純粋な思いから靖国参拝をする政治家も居なくは無いのでしょうが、どうにも傍目から見ているとそれ以前に「靖国参拝をファッションの様に捉えている」政治家が少なくない様な気がしてなりません。「靖国神社で待ち構えるカメラの放列の中を、颯爽と歩んで行く自分自身の姿を思い浮かべて悦に入っている。」、そんな”邪推”をしてしまう程、深い思慮&信念を持って参拝している政治家が居ない様に感じるのです。
政治家の靖国参拝に対して賛否どちらの意見を持とうがそれは個々の勝手と思っていますが、少なくともそれを妙な政治的思惑の為に利用する事だけは在ってはならないでしょう。
靖国神社って何なんですかね?あれは戦没者を追悼する施設というより、日本の近代以降、対外戦争で死んだ軍人たちを「英霊」として祀る神社でしょう。千鳥ケ淵戦没者墓苑とはその性格を大きく異にします。「A級戦犯」が合祀されていることを問題にしますが、靖国本来の精神に則れば「戦犯」なんていないはずです。
英霊を祀るということは、英霊と心を一にすることだと思うんです。だから政治家が靖国神社に参拝するということは、日本が戦争継続の誓いを新たにするという意味だと思うんです。もちろんアメリカやロシア、中国との戦争です。だからそれには今の日本がアメリカ、ロシア、中国と戦争状態ないしは戦争前の段階という認識が前提になります。
ところが小泉・安倍親米政権に果たしてアメリカと戦争する覚悟があるのか疑問に思います。小泉は形だけは靖国参拝に固執していたようだが、国賊竹中、ブッシュの言いなりになっていたし、あの人はどういうつもりで靖国に参拝していたのかわからないです。英霊に対して疚しさを感じていたのかもしれません。そして安倍さんは結局、参拝しなかったです。安倍さんが参拝しなかったのは正しい。戦争する覚悟のない者は靖国に行くべきでないです。
靖国参拝は国家の戦争への意志を意味するから、それは日本国憲法の戦争放棄、平和主義の理念と矛盾します。政治家は日本国憲法を護るなら、靖国参拝はすべきでない。靖国参拝をするなら、世論を憲法改正にもっていくべきです。
非常に申し訳無いのですが、「青い瞳の聖ライフ」という部分に最も反応してしまいました。
TVやインターネットが普及した事で、情報面での地域格差は昔に比べると格段に小さくなったと思います。昔はどうしても情報が不足していた為に、田舎では「長い物には巻かれろ」といった思考が強かったのかもしれないし、それだからこそ少数意見が排除されてしまう雰囲気も少なからず在ったのでしょうね。
確かに非常に醜いものも多いですね。イデオロギー関連でなくとも芸能人のものなどはかなり困ったものが多いですよね。ラジオ等で行っていることを羅列した紹介がよくありますが、本当のことを言っているとは限りませんよね。とくにアイドルは。
>56.2%
いわゆる農村など「郡部」やそれとあまり変わらない田舎の小都市のように村社会が濃厚な地域では加入率は高いでしょう。有無を言わさぬ雰囲気もありますし、田舎の高齢者は往々にしてどうも国や保守系の政治家に反対することを好まない人が多いです。受けてきた教育のせいでしょうか。また学生の卒論の参考になった遺族通信を持ってきたり、会費の集金に来たり、参院選前に遺族会の推す議員に入れるように言いに来たりする婆さんは大概「あることないこと言いふらすのが好きでしかも無学な」婆さん、という困った人だったりします。そういう人ほどそういう役につきたがるのでしょう。
都市部だとやはりそういう雰囲気は減じてくるでしょう。また昭和20年代の時点で裕福な人であれば別にああいう互助組織に入る必然性もなかったのでは、と思います。ただ田舎の人だとそうもいかなかったでしょうけど。
>平和遺族会全国連絡会
これは当然靖国神社への見解の違いから出来た会でしょう。先ほど述べたような婆さんならどういう団体かも良く知らずに「アカ」というでしょう。もっと激しい人なら「売国奴」でしょうか(笑)。当然、首相参拝の際には反対の意を表明すると思います。
>潜在的な反米感情
昔の商業的なシリーズ物映画、いわゆるプログラム・ピクチャーなんかを見ますとよくアメリカ人を「アメ公」と罵るシーンがたまにありますし、戦勝国民として利益を得た「三国人」のなかの中国人がよく「怪しげな中国人」(だいたいヘンリー張とか欧米風の名前だったりするんですよね)として出てくる辺りにも結構大衆の本音が出てるような。
あと安保闘争に関しては反米闘争という面もありますしね。
結構近年になりますが、再放送で最近見た「フローレンス芳賀」というアイドルが主演した多分「フットルース」を下敷きにした「青い瞳の聖ライフ」というドラマは80年代当時としてもかなり時代錯誤の感のある超保守的な日本家庭の息子と、アメリカ人留学生の恋を描くものでしたが、周りの日本の高校生や教師がフローレンスに対し、これでもかこれでもかと白人コンプレックスに満ちたイジメを仕掛けたり(例によって悪役の比企リエが「あなたたちアメリカ人は日本のような発展途上国に傲慢だ」とか言ってたのが強烈だった記憶が)、日本人の男の祖父母がまあ絵に描いたような国粋主義者でフローレンスに黒髪のカツラを強要したり、ムチャクチャでしたが、デフォルメはされていますが、ある意味日本人の本音が出ていたような気もしました。
http://homepage1.nifty.com/dorama/aoi.htm
今の70、80の世代だと「毛唐」なんてのも容易に出てくる単語でしたしね^^;。
仰る様に「敵味方の区別無く、戦死者への追悼が為されるのがベスト。」だと思いますが、それがなかなか出来ないのが人間の愚かしい所。虐めた側はその行為を忘れてしまい勝ちだが、虐められた側はずっと忘れられない様に、愛する身内の命を奪われた側からすると、そう簡単には相手国を許せるものでも無く、延いてはその相手国の戦死者も許せないとなってしまうのは、理屈や原理原則を超えた感情の部分なのでしょう。
世界的に見ると、日本人って結構稀有な特質を持った民族なのかなあと思う事が在ります。「『右』で無ければ『左』しか在り得ない。『愛国者』で無ければ『売国奴』しか在り得ない。」といった感じで、非常に極端な切り口をしてしまう。又、世論が一気に一方向に振れるというのも、この国の特徴の様に感じます。
戦後の所謂「左派」が力を持っていた時代を経て、その反動が現代の「右派」主導の世の中を作り上げていると考えれば、又その反動で「左派」が力を盛り返して来るのでしょうか。振れ方は極端では在りますが、”振り子”状態に在るというのは或る意味バランス感覚が取れた国民性なのかなあと思ったりも。
冗談は抜きにして、どんな方向性の意見で在れ、自由闊達に交わせる現状に感謝しなければならないでしょうね。
まして60年以上もたったものが外交問題になるなどということがありえない。
こんなことを大きく取り上げることそのものがいかがかと?
非常に申し訳無い話なのですが、自分も「日本遺族会=圧力団体」という認識が少なからず在のは事実です。日本遺族会と政治家とが持ちつ持たれつの関係に在るというのが、そう認識させてしまう要因なのでしょうね。
Wikipediaの情報は必ずしも客観的な情報だけでは無く、かなり主観的な情報、時には明らかに誤った情報も在る様です。特にイデオロギーが絡む様な事柄には、そういった傾向が強いのでしょうね。右、又は左、どちらの立場も自身に都合の悪い部分には意識的に目を瞑り、非難する事自体に喜びを見出している様な感じが、自分にはどうしても受け容れ難い所です。
どういう組織で在っても、私利私欲の無い純粋な気持ちで参加している人も居れば、何等かの見返りを求めて参加している人も居るもの。真に差別で苦しんでいる人も少なくないのに、「差別」を錦の御旗にして様々な見返りを要求している様な輩が居るから、被差別団体自体が白い目で見られてしまうのは残念な事です。
御紹介戴いた大学生の論文を拝読させて貰いました。論文に対してこういう表現を使ってしまうのも妙なのですが、良い意味で肩に力の入っていない文章で書かれていますので、自然体で読み進める事が出来ました。意外だったのは「1978年時点で戦没者遺族世帯数が185万世帯に対し、日本遺族会に所属しているのは104万世帯、つまり56.2%。」という事。8割以上の戦没者遺族が所属している様なイメージが在りましたので、「そんなに高くは無いんだ。」という印象です。又、「平和遺族会全国連絡会」を始めとする他の戦没者遺族会が幾つか存在するというのも恥ずかし乍ら今回初めて知りました。他の組織は「政治家の靖国参拝」に付いて、組織としてどういう見解を出しているんでしょうね。気になります。
ニクソン副大統領の話は、以前に何かの本で読んだ記憶が在ります。潜在的な反米感情って、やはり高かったんでしょうかね?戦時中は「鬼畜米英」を叫び乍ら、戦後は嬉々として欧米文化を受け容れて行った我が国ですし(何しろ、戦後直ぐのベストセラーが和英辞書だったらしいですから(苦笑)。)、意外とそれ程の抵抗は無かったんじゃないかなあと思ったりも。人間は哀しい生き物で、常に自分よりも下の存在を見付け、その事で我が身が恵まれていると思いたがるものですよね。(自分も人の事を言えませんが。
昔、ウィキを見たときは遺族会の項にて昭和27年ごろに全国の遺児を保守系議員が率いて東京に陳情に行った、という話が載っていたと思うんですが、それもなんか削除されてるし…。その際親父も行ってるんですよね。ただ子供だったんで東京に行けることがうれしかったので実際の意味は知らなかったようですが。
あの話が載ってないとだいぶ読み手の受け取り方も換わってくるし、あとどのようにかつての戦犯や右翼が会をある意味乗っ取って行ったか、というのが書いてあるとまた理解が違ってくるんですが…。それも前は結構書いてあったように思うんだが…。
会の右傾化というと逆に言うと左翼の遺族への冷たさ、というのもありますね。
以前、いわゆる「左翼」の人のブログ記事を見たのですが、いかに日本は「アジアの人々」に酷いことをしたか書いてあったのです。で、若いネット右翼が反論していたのですが、その返信に唖然としました。「あなたのおじいさんの世代が多分私の親世代となるのでしょうね。確かに私がよく親に’日本はアジアで酷いことばかりしたのでしょ’と言ったらいい顔はしませんでした」と返信というより単にうるさいのを軽くあしらって自論をまた書いてみた、という程度のものが書いてあったのですが、これでは遺族と話が噛み合わんわ、と思いましたよ。遺族は被害感情の強い人が多いのですから。これは日本全体にもいえるんでしょうけどね。空襲の被害者としての意識が強く、負けた国として負わされた加害者としてのレッテル、米軍基地の存在に強い反感を持っている、という内情は…。
ちょっとここ数日いろいろ考えこんでいたのですが、ネットで中々いい読み物を見つけました。祖父母が遺族だという大学生の卒論研究なのですが、だいたいこの大学生とはトシも違いますがまあ遺族会への認識というのの具合が似ていましたので(笑)、ちょうど良い参考になりましたし、さまざまな疑問や世間の遺族会像と自分の知る爺さん婆さんたちとの乖離みたいなものへの理解もすすみました。
http://tatsuki-lab.doshisha.ac.jp/~statsuki/Thesis2004/04_FUSAMAE.pdf
ところで遺族会のHPにて千鳥ケ淵戦没者墓苑での慰霊儀式についてのニュースが載っていました。こっちは天皇など皇族も出席したりするのですね。ところでここが出来た理由がウィキによれば「1953年、来日したニクソン アメリカ副大統領が靖国神社参拝を断ったという経緯」とありますよね。調べたくなりました(笑)。その頃の世論はどうだったのでしょうね。中国韓国相手だとものすごいヒステリーが起きますが、米国の場合はどうだったのでしょう。おそらく潜在的な反米感情は現在以上のものだったと思うのですが…。
長文大変失礼いたしました。
祖父・岸信介元首相が安保闘争が激化する中、日米安全保障条約・新条約の調印&批准に漕ぎ着けた”強い姿勢”を理想としている様な安倍首相ですから、心から戦没者を悼む気持ちは当然在りましょうが、それ以上に”この日&この場所”に颯爽と参拝する自らの姿を思い浮かべていたのではないでしょうか。様々な条件が重なったとはいえ、強硬姿勢が目立つ安倍内閣の閣僚から高市大臣しか参拝しなかったというのは、確かに皮肉さを感じますね。
o_sole_mio様の御意見にはマヌケ様のものと重なる部分が多く、自分も頷ける所です。「靖国神社に祀られた者達だけが戦没者じゃない。」、「戦没者を悼む気持ちは当然だが、左右どちらの立場にせよ、結果的に政治利用しているだけではないか。」といった”違和感”を覚える人が国内に少なからず居るのは事実で、これを全て自虐史観の悪影響としてしまうのは無理が在ると思うんです。様々な立場からの意見や情報を加味した上で、「やはり”この日&この場所”に然る可き立場の人間が参拝するのはおかしい。御霊を鎮めるどころか、逆に政治利用で安寧を妨げているのではないか?」と思う人も結構居ると思います。
靖国参拝に賛否どちらの意見を持とうとも、妙な利害関係が無い一般の人々の切なる思いは、「戦没者達の御霊(これは当然、靖国神社に祀られた御霊だけを指す訳では無く、戦争で亡くなった日本を含む世界各国の人々の御霊という意味ですが。)が安らかなままで在って欲しい。」という事でしょうね。
以前に上のタイトルで靖国神社について記事にいたことがあります。靖国神社については、明治維新の戦没者の慰霊と顕彰のために設立された東京招魂社が期限であること、その後日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争など日本が参加した事変、戦争の戦没者が祀られることなど、国策としての高度国防国家の推進役として大きな役割を果たしたこと、更に国策として戦後においても保守主義の史観の象徴的存在であることから、戦没者の追悼施設として果たして適切なのか疑問を持っており、そのことについて論じたものです。
作家の半藤一利さんは、太平洋戦争に従軍し「戦死」した兵士の過半数は餓死したと指摘しています。そして太平洋の激戦地ではまだ回収されていない遺骨が多数あると聞いています。そういった国家からある意味見捨てられた人たちの魂が、本当に靖国に眠っているいるかどうか疑問があります。帰るとするならば、生まれ育ち、父母の住む故郷の大地ではなかろうかと思っています。
そういったことを考えますと、8月15日に政治家のセンセイ方が大挙して靖国神社へ押し寄せる光景は、戦没者の慰霊というよりは政治的アピールと思えて仕方ありません。
小泉さんよりも保守色の強い安倍さんが首相になり、安倍さんだけでなく、更に保守色の強いメンバーの集まった閣僚の中で靖国神社に参拝したのが、高市さんだけというのも非常に皮肉な結果です。安倍さんが靖国参拝をしないということが、中日、韓日の関係を完全しているという背景や、参議院選の大敗、米下院の従軍慰安婦非難決議案の可決などの影響もあるのだと思います。そういう意味でも靖国神社を巡る動きには政治性がついて回ります。
ただ、多くの方々がそこに戦没者の魂が眠っていると信じていらっしゃるのも事実であり、そういった方々が心やすらかにお参りできるよう、靖国神社は静かなほうが好ましいとも思います。
歴史自体が時の権力者の都合によって、その解釈が変化して行く(変化させられて行く)面が在るのですから、靖国神社の性格が片手落ち状態というのも然も在りなんという事ですね。
「靖国問題」が政治&外交カードになってしまっているというのは否定しませんが、唯思うのは「広く知られていなかったからこそ、妙な思惑が”無い”疑問も起こり得なかった。」という面も在る様に思います。「日本忠霊殿」もその一つなのかもしれないし、「相手がその事を知らなかったからこれ迄は騒いでいなかった。なのに余計な報道が為された事で相手がそれを知り、騒ぎ出した。全く余計な事をして。」的な論調が世間に少なからず在るのは、一寸おかしいんじゃないかなと思うんです。それじゃあ自分が嫌う自虐史観と基本的には同根に在る様に思えるからです。
それにしても靖国神社では騒ぐくせに我が信州信濃の善光寺にある「日本忠霊殿」の存在は無視。これが靖国問題=政治・外交カードに過ぎないことの証拠の一つだとアタシ思うのですがね。
ま、所詮弾の当たらない場所で反対の賛成のってのは虚しいものです。
御二方と親しく御付き合いさせて戴く様になってから、もう結構になります。基本的に御二方共真面目な方だと思っておりますし、「日本という国が好き。」という気持ちは同じなのだと思います。自身の経験や蓄積された知識を元に、この国の現状を憂いている。その方向性は違うにせよ、真剣に憂いているからこそ熱い主張が出来る訳で、「日本がどういう方向に進もうが、全くどうでも良い。」といった好い加減さとは対極に在ると信じています。
>tak_123様
「売国奴」と呼ばれた対象に付いて、私の誤解が在った事を先ずは御詫び申し上げます。なるほどネガティブ・キャンペーンを張った朝日新聞関係者を指していた訳ですね。確かに「珊瑚礁事件」等、朝日新聞の報道姿勢には疑問を感じる所が無い訳では在りません。これは朝日だけでは無く、他のマスメディアも大なり小なり首を捻ってしまう様な、妙な報道姿勢を感じる所は在りますね。
朝日新聞を定期購読してはおりませんし、件のネガティブ・キャンペーンもネットや雑誌の報道で見る位の情報しか在りませんが、捏造された報道が許されないのは言う迄も在りません。某おっさんライター氏も確か主張されていたと思いますが、彼も自分も所謂「自虐史観に縛られて生きるのは真っ平御免。」という点ではtak_123様と同じだと思っております。唯、これはtak_123様がそうだという事では全く無いのですが、「親朝日派と反朝日派の対立」に見られがちな「朝日の論調は何でもかんでも駄目。」、「いや、反朝日の連中は皆馬鹿右翼だ。」みたいな「木を見て森を見ず。」的罵り合いは非常に不毛で、どっちもどっちという気がするんです。双方共、自身に都合の悪い面に意識的に目を瞑っているという感じがして。
話を戻しますが、朝日のネガティブ・キャンペーンに付いてはそれを批判しているサイトや雑誌の情報程度しか知りませんので、それを見る限りでは確かに朝日の遣り方はどうなのかなあと思う面は在ります。でも全体像を時系列で見続けていた訳では無いし、もしかしたら自分が見たのは「全体の森では無く、一本(乃至は数本)の木の部分だけ」なのかもしれませんから多くは語れません。
朝日新聞が全く根拠の無い事柄を元にし、靖国参拝を批判する様な報道を為したのならば、それは全くおかしな事だとは思います。「○○大臣が8月15日に靖国参拝をし、その際『あの戦争で中国に攻め入ったのは正しかった。その正しい戦争の為に亡くなった人達を参拝するのは当然。中国人は黙ってろ!』とコメントした。」みたいな明らかな嘘をでっち上げていたならばそれは論外ですが、或る程度の”煽り”が在ったとしても、「8月15日に首相や閣僚が靖国参拝するのはおかしい。近隣諸国も怒り狂っている。」といった感じの論調”ならば”、その時点での近隣諸国の怒りが無かったという点では捏造ですが、「8月15日の首相や閣僚の靖国参拝はおかしい。」という論調は(ならば)、新聞社個々の主張として在りだと思います。それは読売や産経が、逆の主張をしがちなのと同じではないでしょうか。(上記した様に、朝日のネガティブ・キャンペーンの全てを時系列で見て来た訳では無いので、推測が中心になってしまう事を御許し下さい。)
朝日のネガティブ・キャンペーンによって人民日報の報道の論調が変わったという事ですが、上記した様な明らかな嘘報道が為された上での変化なのか、それとも「8月15日に首相や閣僚が参拝しているという”事実」が報道された事での変化なのかを冷静に見極める必要が在ると思います。前者ならば言語道断ですが、後者ならば「それ迄中国人はこの事実を知らなかったので騒ぎ立てなかったのに、朝日の報道によって知ってしまったじゃないか!」といった、「余計な事を報じやがって。」的考えに基づく朝日への批判の様に感じてしまうんです。tak_123様の場合はそうでないと思っておりますが、「自国に都合の悪い事は一切見ないし、見せなくて良い。」といった世間の風潮は自虐史観と同根に在るのではないでしょうか。
靖国参拝を先にする、否、後にするといった問題では無く、そもそも国内にも賛否両論在る問題なのですから、靖国神社の在り方を先ずはきちんと議論を尽くし、対外的にもですがそれ以上に国内的にベター(ベストというのは無いと思いますので。)な方向性を取ろうという姿勢がこれ迄無かった事自体が問題の様に感じます。
>マヌケ様
本当に色んな議論を自由に出来るというのは幸せな事だし、この環境を守っていかなければと強く感じます。自分も普段はぼんやり生きている様なおっさんですが、やはり真剣に論じる可き時には真剣に論じたいと思っております。
「靖国問題」に対しては様々な意見が在りましょうが、どういう立場の人で在っても「戦没者に哀悼の気持ちを持っている。」という部分は皆同じだと思うんです。唯、遺族会会員の御身内で在るSpa supernova様ですら、”この日&この場所”を選んでの然る可き立場の人達の参拝に違和感、もっと言ってしまえば”妙な匂い”を感じ取れてしまうというのがやはり問題なのではないでしょうか。それは所謂右派や左派どっちに於いても、余りに極端な意見に対して”肌感覚”で捉える違和感ではないかと。
嘗て極端に左派が幅を利かしていた時代の反動が今になって出ていると思うし、反対意見を蔑ろにして自身の意見だけが唯一無二で在る様な論調(これはtak_123様の事では在りませんので誤解無き様に。所謂ネット上で良く見られる意見の様な物を指しています。)は、左派という仮面を右派に変えただけで、中身は全く同じ様な気が自分もしています。
東北人の方の発言、非常に興味深いですね。そう言えば安倍ちゃんが東北地方で演説した際、真っ先に「御先祖様達(安倍ちゃんは御存知の様に長州人。)が御迷惑を御掛けして済みませんでした。」みたいな事を言っていましたが、やはりそういった感情的なしこりっていうのは残っているんでしょうね。虐めた側はその事実を直ぐに忘れてしまうけれども、虐められた側は一生忘れないと言いますからね。
全然関係ありませんが、趣味でドイツの戦車などを作ります。 リアルなものを追求して、資料も買い込むのですが、戦闘の合間に兵士個人がスナップとして撮影した写真などが結構多く、10代後半からせいぜい20代前半の若者が軍服を着せられ、対戦末期なのでしょう、重装備で疲れた中に笑顔が垣間見えるものなどがあるのです。 この写真集に映っている若者のどれだけが、生きながらえたことだろうかと、ふと考えたりするのです。 タイガー戦車を組み立てながら、本当は戦争がどんなものかもあまり理解していないし、平和のありがたさも日ごろは実感することもなくぼんやり生きているようなオヤジです。
靖国参拝に対して賛否両論あるうちその否なる人たちをなにもひとくくりにして「売国奴」と呼んだのでは有りません。このネガティブキャンペーンを展開したことでそれ以降人民日報の報道の論調が変わった事実であること。大新聞社がわざわざ自虐的歴史論に基づいた報道をし続けたこと。これを仕組んだ連中、ひいてはこれを利用し中国に取り入りたい連中を私は「売国奴」と呼びました。
そして別に南方でまだ遺骨が引き上げられていない戦没者たちを回収することも大事でしょうが、だからといって靖国参拝を後回しにすべきだというのも変だと思いますがいかがでしょう。
大昔から右翼の鈴木邦男の気持ちは結構わかる。正直「全共闘の連中みたいなのががネオ在宅右翼になった」ぐらいに思ってそうだし。
確かに同じように平和や愛国心を持っていても人を「売国奴」だの「左巻き」だの他国民を「特ア」だの言ってたら共闘したくないよね。「米帝」なんてのにも困ってしまうように。そういう記号を増やすよりもっといい方法がありそうなものなのに。
そういえばイラク戦争開始時にちょうど外国にいたのでそこの反戦の若者と話す機会があったんだけど、いい奴なのに結局米国とイスラエルにたいしての言葉の使い方に「なんかネオナチっぽくてやだなー。コイツが若者の本流だったらある意味危ういなー。単なる大昔からの伝統の反ユダヤ思想の変形でないの?」と引いたこともありましたから、感情的に凝り固まったフレーズを使う人がいやだというのもありますね。まあそいつの国は中立国なので(スイスではないです)、EUの先進国の中でも今や少数となった兵役があるから若者が深刻に考えるのもわかるけど。
高市大臣についてはまあ昇殿して、というのは評価しますが、それ以上でもないです。
日本遺族会の票なんてもう減っていくだけだから、新しい感情の錬金術する以外ないかもね。でも自衛隊の人って祀ってないらしいし、戦争で、というよりは右翼を増やす方法を取ってるのでしょうかね。
でもあまり極端になって行くと一般人にひかれるだけですけどね。まあ参拝する議員団の人は極端な人を相手してるみたいなのでそれでいいんでしょう。
ただこういういろんな議論を見聞きするとホント戦争に負けるといろんな意味でイカンというかイヤなことばっかり、と思います。
そういやトウホグ人に「東北の人間は靖国神社に反感持ってる人は多いよ!だってあれは東北を征伐した長州の奴の作ったもんだ!」と言われてハッとしたことがあります。
この場合は戊辰戦争の恨みです(笑)。
記事を書き乍ら想像していた通り、この件は賛否両論多くの御意見が在りますね。他の事柄に対する御意見と同様に、其処に”論”の在る御意見は全てリスペクトの念を持っておりますし、「私見のみが唯一無二的に正しく、その他は全て誤りだ。」みたいなおこがましさは持っていない事を(御理解戴いているとは信じておりますが。
「靖国神社=クレムリンの壁」という喩えは面白いですね。確かにどういう立場の視点からしても、靖国神社の”性格”には”片手落ち”な感じを受ける面は在ります。その片手落ちさに気付かないでいるのか、はたまた気付いてい乍ら敢えて目を瞑っているのか、結構後者のケースが多いのではないかという気がします。
所謂”小泉手法”を評価していないし、彼が”この日&この場所”をわざわざ選んで参拝する事には否定的な思いが在るものの、同日に千鳥ヶ淵を参拝しているという”筋の通し具合”自体には評価したい気持ちが在る自分です。どういう立場で在るにせよ、都合の悪い部分には目を瞑り、それで以って主張を繰り広げる程虚しい事は在りません。これは自分も肝に銘じなければならない事ですが(苦笑)。
「売国奴」という言葉、自分も「自国民が彼の国に拉致された事実を薄々で在れ知っていたにも拘わらず、女性や利権を宛がわれて”放置”していたとしか思えない政治家連中。」(これは与野党問わず、少なからずの人間がそうだったのではないでしょうか。金○信や田○真、野○広○といった連中を、自分は絶対に許す事が出来ません。)に対して自分もこの言葉をしばしば用いますので、他者の事はどうこう言えません。
マヌケ様が書かれておられる事、全く同感です。死者を悼む気持ちは非常に重要だし、それは人間が人間で在る以上持っていて当たり前と言える思いだと思います。問題なのは特定の人達だけを「悼む可き戦死者」としている”様な”姿勢。(「特定の人達を悼む可き”では無い”人間として、参拝してはいけない。」としている逆の見方も無いか?という御意見を持たれる方も居られそうですが、何度も書いている様にA級戦犯を悼んではならない等という思いは全く在りません。くどい様ですが、”この日&この場所”に”然る可き立場の人間”が参拝する事が問題ではないか?としているだけ。)マヌケ様が書かれている様に、「真に戦没者全般を悼む気持ちが在るのならば、靖国参拝の前にもっと先んじてす可き事が在るのではないか?」と自分も思いますし、(以前にも書いた事ですが。)「”この日&この場所”での然る可き立場の人達が参拝する事に強い賛意を持っておられる方々の中に、『軍部によって自決に追い込まれた一般人の存在を教科書から削除した。』事に対して批判する声が余り無い。」というのが個人的には非常に不思議なんです。本当に戦没者を悼む気持ちが在るのならば、沖縄の地で自決を免れた人々の証言が少なからず在る以上は、「例え自国に都合の悪い事柄で在っても同じ過ちを繰り返さない為にきちんと後世に伝えて行く努力をす可きではないか。」という声が上がるのが普通だと思うのですが。
tak_123様やマヌケ様、破壊王子様等、しっかりと御意見を書き込んで下さった方々は、その根底に「この国が大好き。」という思いが在るのは同じだし、死者を悼む気持ちも非常に強いと思っています。斯く言う自分も同じ。根底の思いは同じなれど、そのアウトプットの方向性に違いが在るだけで、個々のどの思いが唯一無二的に正しく、その他が100%間違っていると決め付けられる”算数的世界”では無い筈。
戦争を経験して来た先人達の話を見聞すると、「一つの方向性だけが是とされ、それ以外は一切存在してはいけない物と闇に葬られて行く事の恐ろしさ。」をどうしても感じてしまいます。単なる中年のおっさんがやっている当ブログでは在りますが、”現状は”個々の意見を自由に表現出来る国で在る事に喜びを感じますし、間違っても何処ぞの国の様な全体主義国家にしてはならないと思っています。
これは某おっさんライター氏(笑)も主張していたと思うのですが、先ず「”首相や現職閣僚等の”靖国参拝」に対して批判のみならず疑問を呈するだけでも「売国奴」扱いされる風潮はどうかと思っています。全く論(理由)らしきものが無く、感情的に叫ぶというので在れば、これはどんな事柄に付いても論外とは思っていますが、論(理由)の在る反対意見をも「売国奴の戯言」としてしまう風潮はどんなものでしょうか。首相等の靖国参拝に批判(又は疑問)を持っているのは決してプロ市民だけでは無いと思うんです。マスメディアの世論調査等(これは読者層に所謂右的思考の方が多そうなメディアでも。)で、反対意見を持っている人達がそれなりに少なからず居ますが、これを「皆、売国奴だ!プロ市民だ!」と指摘する程無理が在るのではないでしょうか。
先ず混同してならないのは、「首相等が”この日&この場所”に参拝する事を批判(又は疑問)を持つ事。」がイコール「戦没者に対して哀悼の意を持っていない輩。」、延いては「売国奴。」という論理の飛躍ではないかと。自分は戦没者に対して心からの哀悼の意を持っているし、「愛国」を声高に叫んでいる連中よりも余程この国を愛しています。
御盆等の時期に”わざわざ”御墓参りをする”思い”と同じというのは確かに判らないのでは無いですが、これも記事で書きました様に一般人とそれなりの立場の人では自ずと”制約”される部分が在ると思うんです。アジアの人々の間に「日本を戦争に導き、延いては自分達の国土や民の命を奪う結果となった人間が祀られた場所にわざわざこの日を選んで、然る可き立場の人達が”示威行為の様に”訪れるのは不快。」という思いが少なからず在るので在れば、それを控える可きだと自分は考えます。こういう意見を書くと、「アジアの人々が不快感を持っているというのは捏造。」という話になってしまうかもしれませんが、”一人の人間として”同じ立場に立った時、「自分も不快な思いを持つだろうなあ。」と思うし、それは理屈等を超越した気持ち。首相等が”この日&この場所”に参拝する事に賛意を持つ人が居ても良いと思うし、同時に反対の意見を持つ人が居ても良いのではないかと。一番怖いのは反対意見を許さない環境、全て一方向を向かなければならない様な環境ではないでしょうか。
仰る様に小泉前首相は千鳥ヶ淵戦没者墓苑にも訪れておられましたね。(その辺は、以前に書いた記事でも触れたのですが。)「靖国参拝は駄目で、千鳥ヶ淵参拝はOK。」と言うよりも、「”真に”戦没者を悼む気持ちが在るので在れば、その近い距離を考えた場合、両方を同時に訪れるというのが普通ではないか?」という事です。つまり”この日&この場所(靖国神社)”に然る可き立場の人間が参拝する事には反対の意見を持っている自分ですが、でも両方を同じ日に訪れたという意味では小泉前首相は”筋”を通しているという評価(妙な言い方ですが(笑)。)はしています。
”この日&この場所”に参拝する事こそが、日本遺族会の人々の思いに応える事、これはその通りでしょうね。唯、上記した様に「国内にですら”この日&この場所”に然る可き人達が参拝する事に批判(又は疑問)を持つ人々が少なからず居る。(”もし”これ自体が捏造と決め付けてしまうのならば、それは非常に無理が在るし、現実的では無いと思います。)」状況を鑑みると、「日本遺族会の人々の思いは尊び、その他の人々の思いは無視という事で良いのだろうか?」と思うし、延いては「そういう姿勢は、やはり票欲しさという”下心”が優先しているのではないか?(誤解して貰いたくないのですが、彼等に戦没者への哀悼の意が全く無いとは思っていません。唯、それよりも下心の方が先んじているのではないだろうかという思いは在りますが。)」と感じてしまうんです。靖国神社に祀られている戦没者の御遺族の中にも、”この日&この場所”に然る可き立場の人間が参拝する事を
「政治的に利用されている。」と不快感を持っておられる人は居ると聞きます。(実際に訪れておられる方から、そういった意見が出ていたのをニュース等で拝見しました。これすらも捏造というので在れば、それは無理が在ると思います。)千鳥ヶ淵に眠る戦没者の御遺族、又はそういった公的な場所に葬って貰えなかった”名も無き”戦没者達の御遺族の中にも同様に批判(又は疑問)を持っておられる方も居るのではないでしょうか。(具体的に何人そういった人達が居るかなんて勿論判り様が在りません。これはあくまでも、自分がその人達と同じ立場だったらと考えた際に、自分ならばこう思うだろうというのを根底にしています。)
然る可き立場の人達が”この日&この場所”を選んで参拝するというのは彼等の一見識では在りましょう。ですからその考えに批判は持つものの、「それは悪で在り、この世から葬り去らなければならない!」等という思いは毛頭在りません。(これはtak_123様に付いての事では在りませんので誤解無き様に。)
記事で触れようかどうか迷った部分に、日本の政治家にまま見られる良くない点が在ります。それは或る事柄に付いて謝罪し乍らも、不必要に「But」を使いがちな事。「○○に付いては非常に申し訳なかった。でも(But)、XXは正当だ。」といった物言いを多用する政治家が少なくないですよね。勿論、「全体的には誤っていたけれども、部分部分に於いては正当性が在った。」というケースも在りますから、それはそれでこの物言いが間違っているとは言いません。問題なのは、この反論の部分が概して「証拠を持たない(乃至は反論する証拠として乏しさを感じる。)で為されている。」という所。(話が一寸逸れてしまいますが、以前放送された「朝まで生テレビ!」に出演していた某自民党の議員(所謂”刺客”を送り込まれて落選したおっちゃん。)が「中国の或る施設に、日本を過度に中傷誹謗する掲示が在るのは許せない!だから中国の言い分は全て駄目!」的な発言をしていました。然も自身が見て来た様な口ぶりで、かなり激しく彼の国を批判していたのですが(これも誤解無き様に願いたいのですが、自分は別段中国という国を擁護したい訳でも何でも在りませんので(笑)。)、司会の田原氏が「あんた、その掲示を実際に見たのか?」と聞き返してから状況は一変。「僕は実際にその施設に足を運んでみたが、そんな掲示は一切無かった。近隣住民や、この施設に何度か足を運んだ事の在る日本人に迄確認したが、『そんな掲示は全く見た事が無い。』と言っている。あんたは自分できちんと確認せずにそれを事実として主張したが、そういうのは政治家として失格じゃないか?」(田原氏)、「いやあ・・・それは・・・あの・・・だから・・・。」(某議員)と、こんな感じの遣り取りでした。根拠を持ち得ない主張は虚しいものです。「日本軍は数十万人の一般市民を惨殺した。」みたいな”白髪三千丈的な主張は全く受け容れられませんが、同様に「根拠が無い(若しくは乏しい根拠)で主張(反論)する。」のも絶対に受け容れられない。一旦は謝罪し乍らも、後からこの手の主張を口にする議員が少なからず居る事が、他国からすれば「日本は本当に反省しているのか?」と疑問を持たれてしまうのではないでしょうか。自分が”逆の立場”ならば、そう思います。(自虐史観に雁字搦めになってしまうのは嫌ですが。)
鈴木邦男氏のコメントを引用したのは、「事実をはっきりと認めた上で、それでも日本が好きだと言う。」という点が大事だと思った為。「事実をはっきりと認める。」が「他国に対する謝罪。」で在るならば、後から根拠の無い(乃至は乏しい根拠での)主張をする事で、「本当に認めているのか?」と疑問視されてしまう”余地”を生み出させないというのが重要ではないかと。重複しますが、「アジア諸国の人達の間に”この日&この場所”に然る可き立場の人が参拝する事への不快感が少なからず在るので在れば、又、それ対外だけでは無く国内にも同じ思いを持つ人達が少なからず居るので在れば、それを避けるというのが人としての謙虚さ。」ではないでしょうか。勿論、絶対に”理”に照らし合わせて絶対に譲れない部分は譲る必要が在りませんが、「”この日&この場所”への然る可き立場の人達の参拝」がそれに当たるとは”個人的に”どうしても思えません。
tak_123様も自分も「この国が好き。」という点で全く同じだと思うんです。戦没者に対する深い思いも同じでしょう。唯、思考の方向性がこの件に関しては異なっているだけだと。
長文&乱文になってしまった事を御詫び申し上げると共に、「私見が唯一無二的に正しく、tak_123様の御意見は100%誤りだ!」といった考えでは無い事を御理解下さい。
靖国を政治問題にしたがる左巻き共(すぐに政治家は戦争に行くのか?というけれど、返す刀で行政サービスの代償として国防に当たってくれといわれたらどうするんだ?国籍変更の自由は憲法で保障されているからそうするのかね?)は勿論、右曲がり共の言うことはただのレトロブームに過ぎぬ(なぜ明治で止める?日本が一番平和な時代は江戸時代だからそこまで戻せというのは少数派だ)
軍人は前の戦争と戦って負ける。
日清日露の連勝が最後まで呪縛した帝国陸海軍は大東亜戦争に敗れた。その時の占領政策が大成功したために、アフガンやイラクでデッドエンドにハマりこんだ米軍。
さすれば靖国をめぐっての反戦平和論て実効性は低い。ただウケるからメディアもブロガーも取り上げるし、アタシもコメントをしちゃうのであります。
この問題に関する発言だけで、他人を売国奴などと決め付ける視野の狭い人間は、ご自分を何様と思っているのだろうか。 戦地に赴いた経験でもおありなのでしょうか。 家族を愛し、子供達を育て、きちんと納税し、地域の活動にも参加し、沢山の書物を読み、先祖から戦争体験を聞き、40年以上生きて社会や組織の中で経験したものもあり、人を育て、人から学び得た知識や見識から発言した言葉や出てくる考えでも、それでも、極々一部の考え方です。 どんな考えを持つことも自由で、議論する事も自由ですが、その一部の意見だけで他者を売国奴なる汚い言葉で決め付けるのはどうであろうか。 最近はこういう汚い言葉を吐くことが勇ましいとかカッコよく受け取られる風潮にありますが、情けないですね。 あえて売国奴なる言葉が当てはまるとすれば、拉致被害者を金や援助で取り戻そうとする情けない姿勢やアメリカの圧力に頼るしかない弱腰の姿勢を作ってきた今の政府がそうではないのでしょうか? あるいは毎年原爆投下ショーを行っているアメリカ南部の町に何ら強い抗議もしないこの国の政府の弱腰な姿勢は、強いものになびくしかない姿勢は売国奴的ではありませんか。 那覇から金城方面に向う自動車道路の上を超低空で爆装したF15などが何度も何度も飛び交う光景も見慣れてしまいましたが、これほど、好き放題にされている国は植民地かと、今の政府こそが、そもそも売国奴的な振る舞いをして来たんじゃないかと言いたいですね。
今回の高市早苗少子化担当大臣の終戦記念日の靖国参拝は私は評価いたします。
売国奴が騒ぎ始めた昭和60年以降このなにかと「靖国参拝問題」がとり立たされているわけですが、
>靖国神社の性格を考えると。。。
とのことですが、では千鳥ケ淵戦没者墓苑に行っても良いが靖国神社は参拝すべきでないということなのでしょうか?
>真に戦没者の御霊を悼む気持ちが在るのならば、何時でも何処の場所でも手を合わせる事は出来る。
おっさんライターと同じ論法ですね。ではわが日本民族は何故わざわざお盆の時期に田舎に帰り先祖代々の墓に手をあわせるという風習があると思います?
靖国参拝の心情の根本も同じところにあると思います。銘記すべき日に参拝に行くことが普段日常に参拝することとは別の重い意味をもつのではないでしょうか?
>わざわざ8月15日を選んで、それも靖国神社を訪れるというのは、「日本遺族会からの票欲しさ。」
もし票欲しさならもっと大挙して閣僚達は行くでしょう。というより「日本遺族会」の方々の心情をさっしてあえて高市議員は終戦記念日という銘記すべき日に参拝したのだと思うのが自然なのではないでしょうか?彼女は勇気があると思います。
>一般人なら話は別だが、特別な立場の人間(特別な立場の人間は一般人が享受し得ない”特権”を有する代わりに、一般人には無い”制約”を受けるのは当然だと思う。
先ほども述べましたが「日本遺族会」の方々からすると「特別な人」つまりは現役の閣僚が参拝してくれることはそれだけ意味も大きく、もちろんまったく閣僚のだれも行かないよりずっと喜ばしいことだと受け取っていると推察されます。参拝するのにそんな制約論を出すのはちょっとどうかと思います。
それと青字大フォントで書かれている新右翼「一水会」の顧問・鈴木邦男の意見云々と閣僚の靖国参拝は
別に考えて良いと思いますがいかがでしょうか?この混同が売国奴達の論理とかぶっているように思えます。
アジアへの進出は間違っていた→だから閣僚による終戦記念日の靖国参拝はやるべきではない。
そりゃ完全に論理の飛躍だと思います。