今から32年前の1980年、或る御笑いオーディション番組が日本テレビ系列局で放送開始となり、後に圧倒的な人気を集める事となる。古くからの御笑い好きには「伝説の番組」として評価の高い此の番組は「お笑いスター誕生!!」(動画)といい、出場経験者の中から多くの“大物”を輩出。
今もメディアへの露出度が高い者で言えば、とんねるず(内輪ネタ許りに走る前のとんねるずは、本当に面白かった。)やマギー司郎氏、コロッケ氏、Bro.TOM(当時の芸名は「小柳トム」。)氏、イッセー尾形氏、シティボーイズ、東国原英夫(当時の芸名は、「そのまんま東」の前の「ツーツー」だったか?)氏、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水アキラ氏等。個人的には怪物ランドやタージン氏、象さんのポット等も好きだったが、土曜の12時から13時(最晩年は、土曜の17時30分から18時30分。)に放送されていた此の番組を途中からでも見たいが為に、当時学生だった自分は、授業終了と同時に猛ダッシュで帰宅したものだった。
近年、「意味不明な芸風で人気者となるも、直ぐに飽きられてしまい、表舞台から消えてしまう御笑いタレント。」が多い。所謂「一発屋」で、其の殆どが自分には、「何処が面白いのか、サッパリ判らない。」という感じ。皮肉とかでは無く、「笑えるポイントが、全く判らない。」のだ。だから、そんな彼等が直ぐに表舞台から消えてしまう事自体には、不思議さを全く感じなかったりする。
面白いと思って応援している方々には申し訳無いのだけれど、現在メディアに出捲っているスギちゃん氏も、「其の面白さが全く理解出来ない御笑いタレント」の1人だ。何とかの一つ覚えの如く、「~だぜぇ。」(ギャグ?)を連発するのだが、其れの何処が面白いのか判らないし、正直聞いていてイラッとしてしまう。彼のネタもフルで見た事が在るけれど、全く笑えなかった。
彼自身もそんな芸風が直ぐに飽きられるのは十二分に自覚している様で、「~だぜぇ。」を連発する度に「大丈夫かな?」といった感じで、目がきょときょとしているのが、痛々しさを感じてしまう。
「~だぜぇ。」を含む彼の芸風を目にしていると、「何処かで見た様な芸風だなあ。」と、既視感めいた物を感じ続けていたのだが、漸と“答え”が判った。冒頭に記した「お笑いスター誕生!!」に出場していた或る人物の芸風に、極めて似ているのだ。
【でんでん氏】
其の人物の名前はでんでん氏。今は個性的な脇役としてテレビ・ドラマや映画等に欠かせない彼だが、「お笑いスター誕生!!」に出場していた頃は、「よ~皆、ハッピーかい?」や「どうだい?(オイラって)美しいだろぉ~?」、「今日は皆に、オイラの素晴らしい歌を聞かせてやるぜぇ。」等、気障な言葉を連発する漫談で結構有名な存在だった。自分としては、全く面白く無かったのだが・・・。
案の定と言うべきか、芸人としての彼を表舞台で見る機会は減って行った。しかし其れから暫くして、テレビ・ドラマや映画等に脇役として出演している彼の姿を目にする様になる。「役者で生きる道を選んだのか。」と最初は“際物”を見る様な視線で見ていたのだが、何度か見ている内に「意外と味が在るなあ。」と思う様になったのだ。
「芸人」から「俳優」へと軸足を移して行った者は少なくない。由利徹氏や伊東四朗氏等の様に、「芸人」としても「俳優」としても(自分が)敬愛している(いた)人物だっているのだ。芸人としてのでんでん氏には高い評価を与えられなかったけれど、俳優としての彼は中々良い。
一時は持て囃され乍らも、直ぐに表舞台から消えて行った数多の御笑いタレント達。彼等や彼女達が、“一発屋”の儘で終わってしまうのか?それとも、新たな道を切り開く事で、再び復活出来るのか?努力だけでは成功を掴み取れない世界だけに、再復活が厳しいのは事実だろう。
芸人養成所の入所試験の試験官が7、8年前に新聞のインタビューで、「今の芸人志望者たちは、戎橋の上で若者たちがノリ良く会話しているような程度の話術で芸人を目指そうとしている」と語っていました。
それより少し前に母が突然、「○○(私のこと)が芸人になってしまったらどうしよう」と言い出し、その気はまったくなかった私としては、「なんでそんな心配を?」と不思議に思ったものでした。いま推察するに、私と周囲の人々とのやり取りが掛け合い漫才みたいだとか、口癖とそれを発するときの間合いが面白いなどと親族や知人から言われたことが何回かあったので、私がそれに気をよくして無謀にも芸人に挑戦しようとするのではないかと母は心配したのかもしれません。
古典落語や昔の漫才を聞いていると、受け取り手にも歴史や文芸についてのそれなりの教養が求められる作品が多いですね。また、それらについての前ふり部分での解説が、こちらの思いもかけない形でオチにつながってきたりして、台本が良く練られていると感じます。そんな作品を、小学校、せいぜい旧制中学しか出ていないような昔の人々が理解していたのだからすごいです。
「古典落語や昔の漫才を聞いていると、受け取り手にも歴史や文芸についてのそれなりの教養が求められる作品が多いですね。」というのは同感です。昔の笑いが全て良いとは思わないし、中には今の笑いよりも酷いレヴェルの物も在った。しかし全体的に言えば今は、「皆が笑っているから、面白いのだろう。」といった感じで、訳も判らず追随的に笑っているケースも結構在りそうな気がしています。
「今の芸人志望者たちは、戎橋の上で若者たちがノリ良く会話しているような程度の話術で芸人を目指そうとしている。」というのに通じるかもしれませんが、最近のヴァラエティー番組で自分が凄く嫌いなのは、御笑いタレントの家族を安直に共演させる企画が多い事。経費削減の流れでギャラの掛からない(若しくは御車代程度で済む。)身内をキャスティングするのでしょうが、昔はこういうケースも無かった訳では無いけれど、“素人としての自然な面白味”が在った。しかし今は、「こういう言動をすれば受けるだろう。」という“計算”が身内から露骨に透けて見え、興醒めしてしまう。
上方落語ばかりですが、DVDもかなりたくさん持ってます。
だから、お笑い芸は好きです。しかし、昨今の、ピン芸人と呼ばれる連中を観ると、しらけるだけで全くおかしくありません。
芸で人を笑わすのは、ものすごく難しいことです。一朝一夕でできるモノではありません。最低10年の修業が必要です。落語家で一人前の落語家、例えば桂春蝶さん、桂吉弥さん、笑福亭たまたちは、若手ではありますが、10年以上のキャリアの持ち主です。
それが、昨日今日出て来て、ただふざけているだけの芸ともいえない芸が長続きする方が不思議ですね。
「芸歴が長く、周りから『大御所』だ『師匠』だと持ち上げられているけれど、全く面白味を感じられない御笑いタレント。」が居る一方で、「若くしても、類稀なる才能を感じさせてくれる御笑いタレント。」も居る。「芸歴の長さ」が、イコール「面白さ」には繋がらない訳ですが、「修行」というのを「切磋琢磨」と置き換えるならば、長年に亘って面白さを感じ得る御笑いタレント(こういうケース、自分は敢えて「芸人」と呼びたいのですが。)は、概して厳しく切磋琢磨し続けているものですよね。
分野を問わず、幅広く好奇心を持ち、貪欲に知識を吸収している。そういう人間はどんな世界でも生き残れるものだけれど、一時の「運」に胡坐をかき、切磋琢磨しない者は早晩消える。そんな御笑いタレントが、昨今は非常に目立つ。
ごぶさたしてます。
いまはテレビで芸を披露する場所は少ないし
芸能人のポジションが決まっているから
その中で売れていくのは大変ですよね。
司会だと爆笑問題やくりいむしちゅー
ひな壇だとその他の若手お笑い芸人
とくに吉本の芸人ばかり出てきますから。
テレビを見てる側と、しては
物足りない感じがします。
あと、ネタもひとつだけ、ワンパターンだと
飽きられていくでしょうから。
鼠先輩、ムーディー勝山、小梅太夫は
いま、どこで何をしてるのでしょう。
現代人は概して、堪え性が無くなって来ていると言われます。笑いの世界でも、じわじわと笑いが込み上げて行く様な物よりも、瞬間的な笑いじゃないと聞いていられないという人も少なくないとか。だから、テレビ番組ではじっくり芸を見せる場が少なくなったし、御笑いタレント達も“一発芸”に走る様になってしまったというのは在るでしょうね。
多いかな。
いかりや長さん、荒井注、藤田まこと
内藤陳、フランキー堺、犬塚弘、レオナルド熊
元、ヒップアップの小林すすむ
元、コント赤信号の小宮孝泰
ほかにもいろいろいますけど
最近と、いうか以前は
アナウンサーとくに女子アナから
女優になる人も増えてはいるかな。
野際陽子、山村美智子
でも少ないかな。
でんでんの活躍期待しています。
由利徹氏に伊東四朗氏、芸人として自分が敬愛する2人ですが、彼等も御笑いの世界だけでは無く、役者の世界でも成功したケースですね。
「大笑いさせ乍らも、ホロッと泣かせもする。」というのが喜劇のコンセプトで在りますので、喜劇を得意とする人達は、役者としても成功する要素が在るのでしょう。
「若い奴らがモノを知らなくなったから。」
と答えていた記事が目に留まりました。
昔、テレビで見たコントなどは古典的名作のパロディ・ネタ、たとえば貫一お宮の熱海の海岸での絡みとか、武蔵と小次郎の巌流島の決闘などをネタにしたものがありました。12月になると必ず、忠臣蔵をネタにしたコントがどこでね演じられていました。少なくとも、ドリフやひょうきん族辺りはまだ、この「伝統」が守られていました。とんねるずも「仮面ノリダー」の頃までは好きでした。
作り手も演者も見る者も「教養」が欠如しているのは「お笑い」だけではないと思います。阿久悠さんら昔の歌謡曲の作詞家は映画や文学の素養がしっかりしていたと思いますし、小室等さんらフォークソングの先駆けとなった人たちは現代詩の詩人の作品にメロディをつけていました。松本隆さんの作る歌には
“サガンの小説の少女のように(「不自然な君が好き」)”
“イタリアの映画でも見ているようだね(「君に胸キュン」)”
なんてフレーズがあり、それが「シャレている」と受けとめられていたものでした。今、そんな歌詞の歌は受けいられるのかな?
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A: 「○○ってアレじゃね?」
B: 「そうそう、アレ!」
A: 「ダーッて感じで、超スゲッ!」
B: 「ウケルー!」
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以前、街中で耳にした十代と思しき2人の会話。「良くもまあ、“会話のキャッチボール”が出来るよなあ。」と不思議でなりませんでした。「語彙力豊富で、ちゃんとした会話が出来る若者。」も少なからず居る一方、「語彙力が哀しい程乏しく、指示代名詞(彼、此れ、其れ等。)や擬音語(ダーッ、ドッカーン等。)を多用する事でしか話せない若者。」も又少なからず居る。
送り手の側に“最低限の教養”の欠如が見られる様に、受けて側にも同様の事が言えるというのは、自分も同感です。だから、深みの在る笑いが生み出され難い。「例えば20年後、振り返ってみて“具体的に”『彼は、本当に面白かった。』と思える笑いは存在しているのだろうか?」と思ったりします。