先日、近所のスーパーに買い物に行った際、呆れ果ててしまう光景を目にした。ショッピング・カートを押して、だだっ広い店内を歩いていた時の事。一組の若いカップルが目の前を歩いており、そのショッピング・カートには山積みになった商品が置かれていた。何故そのカップルに目が行ってしまったかと言えば、大声で口喧嘩をしていたからだ。その余りの大声に「何事か?」と彼等を凝視する人達が自分の他にも居たけれど、当人達は全く御構い無しに騒ぎ続けていた。パッと見で人を判断してはいけないけれど、見るからにだらしなさを感じてしまう彼等の風体。
人の迷惑も顧みずに騒ぎ立てているのには呆れてしまったが、そのカップルの次なる行動には唖然呆然。彼等が居たのは総菜コーナーだったのだが、(そのカップルの)若いネエチャンが自身のショッピング・カートに載せていた商品の中から焼き海苔をむんずと掴み取り、皿に載ったコロッケの上に平然と置いたのだ。そして数歩歩いた後、今度は別の総菜の上に、やはりショッピング・カートから掴み上げたスナック菓子をポンと放り投げた。「表情を全く変えずに、何等悪怯れる事も無しに仕出かしたネエチャン」と「それを見てヘラヘラ笑っていたニイチャン」という構図には、不気味さすら感じてしまった。(自分自身が仕出かした事では無いのだけれど、こういう現場を見てしまうと気になって仕方なくなってしまい、置かれた商品を元の場所に戻しに行ってしまった自分。)
スーパー等で全く無関係な商品がポンと置かれているのは、これ迄にも何度か目にして来た。「子供の悪戯か?それとも一旦はその商品を買おうと思った大人が、止めて此処に置いたのだろうか?子供なら仕方無いけれど、大人がした事なら情けないなあ。元の場所に戻すのが、そんなに面倒なのだろうか?」と、その度に感じていたのだが、よもやああも堂々と、良い年をした人間が仕出かす現場を目にする事になるとは思ってもいなかった。一ヶ所に置くだけでもどうかと思うのに、わざわざ複数ヶ所に置く所に、その悪質さを感じる。
店のスタッフの苦労等、全く考える頭すら無いのだろう。「自分さえ良ければ、他人の事なんかどうでも良い。」という思考。公共の場でゴミを散らかしているのを注意されて、「清掃する人間の仕事を作ってやっているのに、何が悪い!」と開き直る人間の醜悪さと同根なのかもしれない。
彼等の親の顔が見たかった。一体どういう育て方をしたのだろうか?そして彼等自身が親となった時(既にそうなのかもしれないが。)、そんな彼等に育てられる子供の不幸を感じてしまった。
人の迷惑も顧みずに騒ぎ立てているのには呆れてしまったが、そのカップルの次なる行動には唖然呆然。彼等が居たのは総菜コーナーだったのだが、(そのカップルの)若いネエチャンが自身のショッピング・カートに載せていた商品の中から焼き海苔をむんずと掴み取り、皿に載ったコロッケの上に平然と置いたのだ。そして数歩歩いた後、今度は別の総菜の上に、やはりショッピング・カートから掴み上げたスナック菓子をポンと放り投げた。「表情を全く変えずに、何等悪怯れる事も無しに仕出かしたネエチャン」と「それを見てヘラヘラ笑っていたニイチャン」という構図には、不気味さすら感じてしまった。(自分自身が仕出かした事では無いのだけれど、こういう現場を見てしまうと気になって仕方なくなってしまい、置かれた商品を元の場所に戻しに行ってしまった自分。)
スーパー等で全く無関係な商品がポンと置かれているのは、これ迄にも何度か目にして来た。「子供の悪戯か?それとも一旦はその商品を買おうと思った大人が、止めて此処に置いたのだろうか?子供なら仕方無いけれど、大人がした事なら情けないなあ。元の場所に戻すのが、そんなに面倒なのだろうか?」と、その度に感じていたのだが、よもやああも堂々と、良い年をした人間が仕出かす現場を目にする事になるとは思ってもいなかった。一ヶ所に置くだけでもどうかと思うのに、わざわざ複数ヶ所に置く所に、その悪質さを感じる。
店のスタッフの苦労等、全く考える頭すら無いのだろう。「自分さえ良ければ、他人の事なんかどうでも良い。」という思考。公共の場でゴミを散らかしているのを注意されて、「清掃する人間の仕事を作ってやっているのに、何が悪い!」と開き直る人間の醜悪さと同根なのかもしれない。
彼等の親の顔が見たかった。一体どういう育て方をしたのだろうか?そして彼等自身が親となった時(既にそうなのかもしれないが。)、そんな彼等に育てられる子供の不幸を感じてしまった。
厳格過ぎる親に反発して、結果的に道から逸れた子供。逆に好い加減な親を反面教師にして、真っ当に育った子供。世の中には色んなケースが在りますので、確かに「好い加減な輩の親
=同様に好い加減」とは必ずしも言えない訳ですが、親が子供に与える影響は経験則からしても決して小さくないとは感じます。好い加減な輩の親の顔を見た所で何かが変わる訳では無いけれど、「他者への迷惑なんぞ知ったこっちゃない。」という言動を露骨に見せられてしまうと、当人も然る事乍らその親にも文句を言いたくなったりも。
小泉改革が影響しているのかどうかは判りませんが、「他者の気持ちを慮る」というのが何時の頃からか全般的に薄くなっていった感じがします。それと反比例して、「仮想敵を作り上げ、それをバッシングする事で己がストレス発散する。」というのが顕著になって来た様にも。世の中から潤いが無くなって行っているのでしょうね。
知人は似たような目に遭った際、その相手に悪態を付かれ、しかも近くにいた小学生が泣き出したので勘弁ならんと思ったら、近所の大企業に相手の車が止まっていたのでその企業に訴えたら、企業の人事課の課長と工場長と本人が飛んできて謝罪。本人はふてくされていたそうだが、上の人間が平謝り。ものすごい騒ぎになって恐縮したと言っていました。相手はもしかしたら降格になったかもしれないし、ヘタしたら解雇か。
自分も他山の石にしようと思いました。
私の住む地域は車社会だからまあ、昔からこういうことは大して珍しくもないが、毎回「嫌だなあ」と思う。
雪国で数年過ごした人によれば「そんなの序の口」だそうで、冬季は歩道を歩いていても車が思いっきり雪のしぶきを上げていくから雨合羽を着ていてもずぶぬれになるので冬のスーツを何着も作ったと言っていました。現地の人は自分自身が車移動でそんなに歩かないから歩行者など気にもしないのだという。
車のマナー、守って欲しいものだが、世知辛い世の中だから難しいのかなあ、と思ったりもします。
これは以前にも書いた事なのですが、「自分自身が運転免許を取る前」には気付かず、「運転免許を取ってから」気付いた事に、「運転手は歩行者(乃至は路上に存在する事物)に対して、運転経験の無い歩行者が思っている程は注意を払っていない。」というのが在りました。勿論、運転する時は充分な注意を払ってはいるのですが、免許を取得する以前は“歩行者の立場として”「自分だけに運転手は注意を払っている筈。」と思っていたのですが、いざ“運転手の立場”になってみると、歩行者1人(乃至は路上に存在する事物1つ)はOne of themに過ぎないんですよね。それを知った時、「自分だけに運転手は注意を払っている筈。」と考えて一寸車道寄りを歩いていたりしていた事にゾッとする物が在りました。
最低限のマナーすら守れない人に対しては憤りを感じるも、注意して恨みを買ったりするのも嫌という思いは誰しも在る。ストラングラー様の場合も、真っ当な行為をしたにも拘わらず、何とも言えない後味の悪さを感じられたと思うし、本当に理不尽と言ったら理不尽な話ですね。