休日、会社勤めをしている家人と街中を歩いていた所、彼女が急に強張った表情を浮かべ、「斜め右に、白いシャツを着た男の人居るでしょ?彼奴が、何度か話した痴漢だよ!」と小声で言った。「電車内で何度か痴漢に遭い、其の殆どが同一人物による行為。声を上げ様にも、怖くて上げられない。」という話を、彼女から何度か聞いてはいた。
もう四半世紀以上前の話だが、件の男性は20代と思しきスリムなイケメン。女性には不自由していなさそうなルックスで、彼女からの指摘が無ければ、痴漢とはとても思えない感じ。「痴漢というと『如何にもって雰囲気の男』というイメージが在ったけれど、こういう奴も居るんだな。もう病気なんだろう。」と思った物だった。
此処数ヶ月程の間、「『電車内で痴漢行為をした。』という事で車外に連れ出されるも、ホームから飛び降り、線路上を走って逃走する。」という事件が相次いでいる。一昨日には横浜で、逃走中に電車に跳ねられ、30代の男性が死亡するという事件が。
痴漢が許されない行為なのは、言う迄も無い。痴漢行為を働いた者は厳罰に処されるべきだし、逃走によって生じた損害(電車の遅延等。)に付いては、きっちり賠償させるべきで在る。
そういう思いを持っている一方で、(「今回の事件がそうだ。」と言う訳では全く無いが)「痴漢行為を働いていないのに、誤って痴漢とされてしまった人も居るのではないだろうか?」という思いも在ったりする。所謂「冤罪」だが、中には「悪意を以て、痴漢に仕立て上げられてしまったケース。」も在りそう。
「混み合った車内では、出来るだけ女性には近付かず、常に両手を上げて吊り革に掴まる等し、痴漢と疑われない様にする。」というのが、自分が行っている対処法。「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず。」を実践している訳だが、其れでも「痴漢の疑いを、100%掛けられない。」という事にはならないだろう。
以前、「自分が痴漢行為を働いていないのに、痴漢として駅員室に連れて行かれそうになった時には、断固として拒否すべきで在る。日本の場合、駅員室に連れて行かれたら、“流れ作業”で警察への引き渡され、逮捕&有罪となってしまうから。『自分は、痴漢をしていない!』と声高に叫んだ所で、其れを証明する具体的な証拠が無い限り、無罪になるのは難しい。」と、多くの冤罪事件を手掛けている弁護士が、TV番組でそう語っていた。
雫石鉄也様が先日、「容疑者=犯人ではない」という記事を書いておられるが、「容疑者=犯人」と見做す風潮は、「痴漢として突き出された人物=痴漢実行犯として確定」といった雰囲気を後押しするだろう。だから、実際に痴漢行為を働いていないのに、痴漢として突き出されそうになった者が、上記した弁護士の話を“拡大解釈”し、逃走する道を選ぶという事も考えられる。
くどい様だが、痴漢行為を実際に働いた者は厳罰を処されるべきで在る。でも、本当に何もしていない者が、誤解や悪意によって痴漢として突き出されそうになり、結果として逃走しなければならなくなったとしたら、“悲劇”の一言では片付けられない。
警察は証拠を集めて送検するまでが仕事で、犯罪人を作り出すのが仕事ではありません。
「それでも僕はやってない」
http://blog.goo.ne.jp/totuzen703/e/e731c08bdae5a6cd2b59654d3a91cbe4
という映画がありましたが、ほんとハラが立ちました。
こうなると、女性専用車があるのだから、男性専用車をつくってもらいたいですね。
映画「それでも僕はやっていない」は、自分も以前見ました。「絶対に痴漢していない。」と主張し続けても、「痴漢実行犯と確定在りき。」で進められて行く捜査&裁判には、正直怖さを感じました。実際に犯罪を実行していなくても、犯罪計画を立てただけで捕まってしまう「共謀罪」が成立したら、こういった風潮を助長するのではないかと、大きな不安を覚えます。
本題から外れるかも知れませんが、そもそも満員電車で移動しなければならない状況そのものが、卑劣な行為や冤罪を生み出すのなら、都会人口が多すぎるという事でしょう。
片や乗降客が少なくて廃線の危機にあるローカル線があり、人口減で立ち行かなくなる自治体があるのは、都会にばかり「便利」が集中しすぎるからでしょう。
「危険」と「便利」は背中合わせ、そんな気がします。
財布は尻ポケットでは無く、スーツの内ポケットに入れ、其れも逐一ボタンをしていますので、スリの危険性は多分無いと思います。其れに、スリムな方なら別ですが、自分はダイナマイト・ボディー故
「危険と便利は背中合わせ」、其の通りでしょうね。全ての面に於いて都会、其れも東京に一極集中しているというのは、地震やテロ等の不測の事態が起こった際にも、大混乱を来すという危険性を含んでいる。以前から議論されている様に、「司法の中心」や「立法の中心」、「行政の中心」、「歴史の中心」等を分散させるべきではないかと。