ば○こう○ちの納得いかないコーナー

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あの有名人の子孫の数奇な運命 Part2

2010年09月02日 | 歴史関連
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「『龍馬の片腕・近藤長次郎秘話』曾孫の川邉篤次郎さんが語る」(2009年8月23日付け長崎新聞

幕末志士・坂本龍馬の片腕と言われ乍ら、長崎で切腹して非業の死を遂げた「饅頭屋」近藤長次郎。英雄視される龍馬の陰に隠れた存在では在るが、持ち前の才智を生かして薩長同盟の成立に大きく貢献した人物だ。長次郎の曾孫・川邉篤次郎さん(77歳)は福岡県北九州市健在。篤次郎さんの話を基に最近判明した長次郎の「秘話」を紹介する。

長次郎が切腹した日は1866(慶応2)年1月14日とされる。「汗血千里駒」、「維新土佐勤王史」等明治大正期の小説や文献の多くが同日としている。

だが、長次郎の墓が在る晧台寺長崎市寺町)の過去帳には慶応2年1月24日が死亡日と書かれている。川邉家に伝わる長次郎の位牌も「慶応二年正月二十四日死」と在り、篤次郎さんは「14日説」に疑問を感じていた。

土佐史談会員の皆川真理子さんは3月発行の「土佐史談240号」で、長次郎の死亡日に言及した論考を発表した。

論考では、長崎に赴任していた薩摩藩士野村盛秀の日記を紹介。其れによると「正月十四日 今晩、上杉宗次郎(長次郎の変名)、伊藤俊輔菅野覚兵衛グラバーの別荘へ行く。」、「正月二十三日 今晩八つ時前、上杉宗次郎に盟約違反の不祥事が在り自殺したと(亀山社中の)沢村惣之丞高松太郎、菅野覚兵衛が届け出た。」と在る。

そうすると、長次郎は1月14日にグラバー宅を訪ねており、切腹は23日となる。皆川さんは「14日切腹は誤記の可能性が高い。余り検証されないままに定説になってしまったのではないか。」と見る

長次郎は1863(文久3)年9月、大阪の商人・森下弥七の娘徳子と結婚。夫婦の間には長男・百太郎が生まれた。

長崎市元船町の宮崎秀隆さん(56歳)は今年初め、歴史研究者の父清茂さん(故人)の遺品の中から、百太郎の長女・故森下和子さん(篤次郎さんの母)が1936年2月、晧台寺の住職に書き送った手紙を発見した。

手紙は徳子が百太郎を生んだのは長次郎が切腹した後で、『男子なれば百太郎と名付けよ。』との遺言だったそうです。と明かしている。

長次郎の死後、徳子は行商や手伝いをして百太郎を育て上げた。百太郎は父の面影を求めて足跡を訪ね歩いていたが、和子さんが3歳の時に行方不明になってしまった。手紙は「長次郎の死後、ずっと不運が続いてどうしてかと不思議です。」と綴る

手紙を読んだ篤次郎さんは、長次郎が一人息子の顔を見る事無く死に、曾祖母等が大変苦労したと知り、胸が詰まる思いがした。

長次郎が残した写真、手紙、血痕が付いたの切れ端等の遺品は、亀山社中の仲間から大阪の徳子へ届けられた。此れは百太郎から和子さんへ受け継がれ、大切に守られて来た。

川邉家に嫁いだ和子さんは篤次郎さん等4人の子に恵まれた。しかし家族と福井市疎開中の1945年7月19日、1,600人の犠牲者を出した福井空襲遭い、篤次郎さんと一緒に布団を被って避難する途中、焼夷弾が頭に直撃して亡くなった。

奇跡的に助かった篤次郎さんは、母が首に巻いていた風呂敷包みを無意識の内に遺体から取り、猛火の中を懸命に逃げた。包みの中には長次郎の遺品が入っていた。

一家は戦後九州へ移った。篤次郎さんは小倉で食堂を開いて我武者羅に働いた。家を買い、墓も買って「此れで胸を張って長次郎の子孫と名乗れる。」と思った時には50代手前になっていた。

篤次郎さんは1978年、長次郎の故郷高知へ行き、高知市民図書館へ長次郎の遺品を寄託した。地元の新聞には「近藤長次郎に子孫が居た。」と大きく報道された。

母と共に命懸けで守った遺品は、悲劇の志士・長次郎の息吹を現代に伝える貴重な史料だ。今、篤次郎さんの胸には「曾祖父(長次郎)も、母も喜んでくれているだろう。」と安堵の思いが過る
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「龍馬伝」では妻子を残して切腹しなければならなかった長次郎の思いが胸を打ったけれど、実際には此の時点で息子の百太郎は生まれていなかった訳だ。「時代劇は、史実に100%忠実で在らねばならない。」と考える人にとっては気に食わない設定だろうけれど、以前の記事でも書いた様に、自分はこういった“演出”は悪くないと思っている。

それにしても長次郎、そして其の息子の百太郎氏、孫に当たる和子さんと、何とも数奇な運命を辿った人達と言えよう。無念の内に亡くなった父・長次郎の面影を求めて足跡を訪ね歩き、そして行方不明になってしまった(今で言うならば「消えた高齢者」?)百太郎氏というのも哀しさを感じるけれど、焼夷弾が頭に直撃して亡くなられた和子さんの不運さも、又哀しみを増させる。其れだけに、篤次郎さんが幸せに過ごされている様なのはホッとする思いが。

又、此れは青空百景様も書いておられたのだが、「幕末」というと大昔の様な感じがするけれど、長次郎の曾孫が御健在という話を見聞すると、「そんな昔の話では無いんだなあ。」と感じてしまう。民主党衆議院議員木内孝胤氏(44歳)は、岩崎弥太郎の曾孫という事だし。

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5 コメント

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>おりがみ様 (giants-55)
2010-09-04 01:19:19
書き込み有難う御座いました。今回はこちらにレスを付けさせて貰います。

太古の昔から“強者”のエゴに“弱者”が振り回されるという構図が在ったのでしょうが、20世紀から21世紀に掛けては米ソ中といった大国が“御為倒し”を掲げつつ、実際には自らののエゴを押し通す為、弱者の弱みに付け込んで来たというのが顕著。

不平不満は少なからず在るけれど、仰る様に選挙で人が死ぬ事も無く、此れ程迄に経済がガタガタになり乍らも「押尾裁判」を国家の一大事の如く報じているマスメディアを考えると、良くも悪くも我が国は幸せなのかもしれません。
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恐縮でございます(赤面) (青空百景)
2010-09-03 16:53:47
毎週好き勝手なことを書き散らしているだけなんですが(汗)。
そういえば政界には、大久保利通の子孫の方もいましたっけ……「不肖の子孫」だなあといつも思ってましたが(爆)。
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いやいやいや・・ (おりがみ)
2010-09-03 15:56:54
ルーマニアもフィリピンもバックには大国の思惑がなければああいう結末があったかどうか。
あと、どこが勝っても勝ち馬に乗りたがりの「ジャーナリズム」は油断ならないです。
腕を打ちぬかれたギターをひく歌唄いのような痛みに全ての庶民が耐えられるとは思いませんし・・。

この国は・・不幸ですが幸せですね。選挙で人が死にませんから・・。

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>おりがみ様 (giants-55)
2010-09-03 12:34:24
書き込み有難う御座いました。今回はこちらにレスを付けさせて貰います。

ルーマニアのチャウシェスク政権崩壊やフィリピンのマルコス政権崩壊等、歴史的な一大転機に一般国民の力が大きく関与して来た事も在るには在るのだけれど、其の多くは限られた人間達によって動かされて来たと言っても良いでしょうね。唯、マスメディアの普及、そしてインターネットの普及により、此れからは一般国民がそういった転機に大きく関わって行くケースが増える様には思います。
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そう・・とおくはない (おりがみ)
2010-09-03 08:32:34
恨みつらみとかではなく・・
対立しあった勢力がこの国にもほんの150年ほど前にあったということは、チャンと知っておくべきではないかと常々思うのです。
生れ落ちた時代や土地や身分が人の上下の差を作ってホンロウしてきた事実を。

わたくしを含めて、多くは右往左往していた庶民の末裔で
わが手で時代をこじ開ける機会も力もないまま年老いてゆくわけですが。

明治は近い。
幕末も。
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