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「急進派がスフィンクスとピラミッドの『破壊』呼び掛け エジプト」(11月13日、CNN)
急進派のイスラム指導者がエジプトの民間テレヴィ局の番組に出演し、世界遺産にも指定されたピラミッドとスフィンクスは破壊すべきだと発言した。
発言の主はイスラム指導者のモーガン・ゴハリ氏。10日、エジプトの民間放送局ドリームTV2の番組に出演し、もし自分達が実権を握れば、スフィンクスとピラミッドを躊躇無く破壊するだろうと語った。
同氏は又、自分はアフガニスタンで2001年3月に、当時の支配勢力だったターリバンと共にバーミヤンの大仏破壊に加わったとも公言している。
司会者は此の発言にショックを受けた様子で、「彼の仏像と同じ様に、明日目が覚めたらスフィンクスとピラミッドが破壊されている事になると?」と3度に亘って同じ質問を投げ掛けた。
此れに対してゴハリ氏は、「シャリーア(イスラム法)に従えば、偶像は全て破壊しなければならない。」、「崇拝されている、或いは崇拝されている疑いの在る偶像、地球上で1人でも崇拝者がいる偶像は、破壊する必要が在る。」と繰り返した。
別の出演者も「スフィンクスとピラミッドはエジプトだけの物では無く、人類にとっての遺産だ。」と訴えたが、ゴハリ氏の態度は揺るがなかった。同氏の発言を受け、「今の内に、ピラミッドに行っておこう。」と呼び掛けるブログも登場した。
CNNのベン・ウェデマン記者は、こうした発言がテレヴィで流れる様になった背景に付いて、「熱狂の中で生まれたエジプト革命は、『パンドラの箱』の様な様相を呈して来た。」とし、希望だけで無く、急進主義や大衆扇動、犯罪、無秩序、恐怖等が入り混じり、誰も元に戻す術を持たないと解説している。
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国内を旅していると、記念碑を目にする事が少なくない。歴史上の事件や人物に関する記念碑は良いのだが、中には芸能人に関連する記念碑も結構在ったりして、そういう類いの物が風光明媚な場所にドカンと設置されていると、個人的には「興醒めだなあ。」と感じてしまう。だからと言って、「ぶっ壊せ!」と迄は思わないけれど。
「ターリバンによるバーミヤンの大仏破壊」のニュースに触れた際には、怒りに打ち震えてしまった。どんな主義&主張を持とうが、其れは個人の勝手だが、“人類の叡智が詰まった遺産”たるバーミヤンの大仏を破壊するというのは、とても許し難い事なので。
「余りにも極端な思考」の持ち主というのは、概して「異常な程の狭量さ」が特徴でも在る。今回のゴハリ氏の主張も、異常な迄の狭量さが根底に在るのだろうし、(人類の叡智が詰まった遺産たる)スフィンクスやピラミッドを破壊するなんていうのは、呆れ果てる許りの戯言だ。
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「『国民は、無罪と無実は別と思っている。』自民・安倍総裁」(11月12日、産経新聞)
自民党の安倍晋三総裁は12日、福岡市内で講演し、民主党元代表で「国民の生活が第一」の小沢一郎代表への控訴審無罪判決に付いて「恐らくこういう判決が出ると予測していたが、多くの国民は裁判での無罪と無実というのは別だと思っていると思う。」と述べた。
「小沢氏は又、更に頑張って行こうという気持ちになっているかもしれない」とも語った。
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「或る日突然、身に覚えの全く無い容疑で、貴方が逮捕された。」という状況を想像して欲しい。「自分は無罪だ!」と叫び続けるも、周囲の人間は信じてくれない。長期に亘る裁判で漸と「無罪」を勝ち取り、ホッとしたのも束の間、社会的に影響力の在る人から公の場で「貴方は裁判では無罪となったが、多くの国民は裁判での無罪と無実は別と思っている。」と言われたとしたら、どう感じるだろうか?
日本は、法治国家で在る。そして、「疑わしきは罰せず。」というのが刑事裁判での大原則。小沢一郎という人物を自分は支持していないけれど、少なくとも審理に審理を尽くした上で裁判所が無罪という判決を出したのに、其れに対して「無罪と無実は異なる。」と“元首相”の安倍氏が口にした事は、法治国家を否定する暴言ではないだろうか?「あいつは無罪になったが、無実の訳が無い。」という偏見が、多くの冤罪を生み出して来た事を御存知無いとしたら、相当の痴れ者と言わざるを得ない。今回の安倍氏の発言も、呆れ果てる許りで在る。
「歴代首相の中で、安倍首相は最悪の人物。」と自分は捉えているが、其れは「異常な迄の形式主義(「~を義務付けしさえすれば、全てが上手く行く。」といった思考。)」や「自身の非を一切認めず、自身と少しでも異なる思考や主張を、徹底的に弾圧しようとする姿勢。」の他に、今回の様な「常識を疑わざるを得ない発言が少なくない。」というのが理由だ。
田中眞紀子文部科学大臣が大学設置・学校法人審議会の認可答申に反し、3大学の設置の不認可を決定した事に端を発した「大学新設不認可問題」。彼女が大臣になった時点で、「又、問題を起こすだろう。」とは思っていたので、「矢張りなあ。」という思いが。来年開校予定なのに、此の時点での不認可というのは、余りに影響が大き過ぎる。」と考えていたので、取り敢えず3大学に認可が下りたのは良かったと思う。
唯、田中大臣の“手法”に大きな問題は在ったと思っているが、彼女が提起した“問題点”は間違っていないと考えている。嘗ては大学の設置は其れなりに厳しかったけれど、小泉政権下での規制緩和政策によって、「申請さえすれば、確実に認可される。」という状況になり、其の結果として定員割れ等で運営出来なくなった大学が続出。大学全体のレヴェル低下が叫ばれ、運営出来なくなった大学の付けは、最終的に国民の負担となる面が在る。大学設置・学校法人審議会の委員には“学校関係者”が多く、其れが故に「なあなあの審議になっているのではないか?」という田中大臣の指摘は外れていないと思うし。
で、話を元に戻すが、田中大臣の“暴走”に対して安倍総裁は、「異常な行動をする、滅茶苦茶な人。日々言う事が違うし、嘘を平気で言う。」と批判していた。田中大臣の此れ迄の言動には、自分も不快さを感じる点は少なくなかったし、彼女から度を越した批判をされて来た安倍総裁としては、「良い機会だから、言い返してやろう。」という思いが在ったのは判る。しかし、苟も首相を務めた人間、そして次の首相になるかもしれないという人間が、こういった口汚い批判をするのはどうかと思う。口汚い批判に対して口汚い批判で返すというのは、子供の喧嘩でしか無い。「美しい国」を口にする人間とは思えない「美しくない言葉」で在り、彼のこういった「幼さ」も以前からずっと気になっている。
ワイドショーの「とくダネ!」で、経営コンサルタントの田中雅子さんとキャスターの小倉智昭氏が安倍氏を批判した際、ネット上で安倍氏を熱狂的に支持する連中が“嫌がらせとしか思えない手法”による集団抗議を行っていた事を以前批判したけれど、そういった集団抗議によって小倉氏は番組内で謝罪する事に。其れに対して安倍総裁は自身のFacebookの中で「多くの方が番組に抗議して戴いた結果でしょう。此れは正に、ネットの勝利ですね。」と記していたと報道された。
「1人1人が自分自身の頭で考え、そして自分自身の判断で抗議した。」のなら話は別だが、「ネット上に記された“嫌がらせとしか思えない手法”に面白がって乗っかり、“威力業務妨害としか思えない形”で相手を黙らせる。」という事が「ネットの勝利」なのか?「自身に不都合な事は、どんな手段を講じて抑え込んでもOK。」という事ならば、此の国は最早法治国家では無い。
「秋葉系」に阿り捲っているとしか思えなかった麻生太郎元首相。彼の姿を見て、「じゃあ俺は、ネット族を味方に付けよう。」と思ったのかもしれないが、特定の対象への阿りは、結果として自身をより“狭い視野”にさせるだけだと思う。
「世論」とか「国民」とか口にする割には、庶民感情からかけ離れた所で内輪もめして時間をつぶして・・・。
特に政治家も二代目三代目ともなると、自分たちの取り巻きだけが「国民」「世論」と思っている節があります。
逆に大衆の側にも、他者の意見に真摯に耳を傾けない、傲慢・尊大な態度を強いリーダーシップと勘違いしている危うさも見受けられ、怖さを覚える昨今です。
自民党の政治家だったかが指摘していたのですが、「安倍晋三とう人物は典型的なお坊ちゃん。小学校から大学迄“エスカレーター”で上がって来た事も在り、自分に寄って来る人物は受け容れられるけれど、自分から見知らぬ相手、特に考え方が少しでも違う相手を受け容れ様とする事が出来ない。」と。世襲議員の“限界”は色々言われていますが、「自分にとって心地良い人間で周りを固めたがる。」というのも、概して言える事ですね。
大衆側の問題点、仰る通りだと思います。「自分で情報を集め、自分の頭で其れ等を精査し、そして自分の頭で決断する。」、そういった事が出来ない人が多く、だからこそイメージに簡単に流されてしまう。自身の選択に付いて検証もせずに、「~は駄目だ。」で済ませてしまう。だから、世の中が何にも変わらない。
他者に対して異常に厳しく、自分や其の取り巻き似は異常に甘いという為政者を盲目的に支持する事は、自身が嫌う相手に対して其の為政者が厳しい姿勢を見せている限りは心地良いだろうけれど、そういった為政者が自身に対して其の刃を突き付ける可能性の高さを頭に描いていない。想像力の欠如と言えます。
陳舜臣氏の小説『耶律楚材』の中で、モンゴル帝国に宰相として仕えた耶律楚材の台詞として、「世の中には自分の知らない何か大切なものがあるということを知ってもらえればいいのです」という言葉が出てきます。枠というのは、狭めることで人を排除するためのものではなく、拡げることで人を助けるためのものだと思います。
大衆の側の問題点については、悠々遊様やgiants-55様に同意です。自分が気に入ったあるいは見込んだ者に対しては親切だが、それから外れた人には冷淡に接することを「義侠心」と履き違えたり、目下の者の言動を咎めなければならないような場合でも、「咎め立てするのは無粋」として放置したりすることを「兄貴分的振る舞い」だと履き違えているように見受けられる人もいますね。
「枠というのは、狭める事で人を排除する為の物では無く、拡げる事で人を助ける為の物。」、同感ですね。当ブログでも何度か書いていますが、近年は「尤もらしい用語を用いているものの、結局は他者をバッシングしたいが為に、其の用語を利用しているだけ。」というケースが目立ちます。「自己責任」や「愛国」、「平和惚け」なんていうのも時にはそうでしょうね。
「好き嫌い」という概念を介在させ、同じ事柄で在っても判断を変えてしまう。此れでは、何等説得力を持ち得ない。自分も好き嫌いが激しい口では在りますので、其の点は常に留意する様にしております。