御笑い大好き人間の自分だが、所謂“ネタ見せ番組”を見ていて、“観客の過剰反応”に白けてしまう事が結構在る。
好きな御笑いタレントに対して顕著なのだろうが、彼(等)or彼女(等)が舞台に出て来ただけで大笑いする。何かを言ったり、何かしたりする度、笑うポイントでも何でも無いのに、手を叩いて大笑い。酷い場合、落ちに行く前に笑ったりも。そうなると、肝心の御笑いに集中出来なくなってしまう。映画館で映画を観ている際、周りから間断無く話し声が聞こえたり、何かを食べている大きな音が聞こえたりしているのと一緒の感じ。
こういう観客、昔も存在しなかった訳では無い。“ドリフ”の番組等、“笑い屋”とも呼ばれる小母ちゃん達の笑い声が“演出”として使われていたし、1980年代初めの漫才ブームの際には、一部のアイドル扱いされた漫才師達が舞台に登場しただけで、大笑いする観客は居た。でも、“今”程は酷く無かった様に思う。
状況と無関係に笑ってくれる客というのは、“腕の無い御笑いタレント”にとって、非常に有難い存在だろう。詰まらなくても笑ってくれるからだ。そんな御笑いタレントが増産されて行けば、御笑いの世界は駄目になって行く。
“腕の在る芸人(敢えて、御笑いタレントとは書かない。)”ならば、状況と無関係に笑ってくれる客というのは邪魔なだけだろう。「そういう環境に順応してしまえば、自分の腕が落ちて行く。」のが判っているから。そういう芸人は消える事無く、残って行くに違い無い。
「腕が在る者は残り、無い者は消える。」というのは当たり前の事だが、“無粋な観客”が増える事で、御笑いの世界全体のレヴェルは確実に落ちる。困った話だ。
では「お笑い」は嫌いなのかというと、そうではなく上方限定ですが、落語は大好きです。
落語会にもよく行きます。私がよく行く、喜楽館や繁昌亭などでは、客は無意味に笑いません。私自身も、前の方に出てくる若い落語家なら、1席の噺に、クスリと一度笑えばいい方です。
出てきただけで客が笑う。亡くなった桂枝雀師匠が一生かけて到達しようとしたく境地です。この記事に出てくる「お笑いタレント」は浪速の爆笑王桂枝雀をこえているということですね。すごいですね。
記事の中でも書きました様に、笑いのポイントは千差万別ですので、本人が笑いたい時に笑えば良いのですが、其れにしても“笑い屋”の如く、無分別に笑う観客というのは、笑い全体の質を下げこそすれ、向上させる事は無いと思っています。
子供の頃、初代・林家三平氏が舞台に登場するだけで、客席が湧く光景をテレヴィで見ました。笑いの好みは在るでしょうが、自然発生的に起こる笑いというのを子供心に感じ、「凄いなあ。」と思った物。其の一方、腕の無い御笑いタレント(自分はこういう類いを“芸人”と呼びたくないので、敢えて使い分けています。)がネタを遣っても、気の毒になる位、客は湧かない。そういう時代が在りました。
「無闇矢鱈と笑う観客の増加が、突如人気が出ても、あっと言う間に消えて行く“一発屋”が御笑いの世界に増産されて行く様になった。」事とは、強い関係性が在るのではないでしょうか。
子供の頃に見た林家三平