「ベストジーニスト」なる賞が在る。「日本ジーンズメーカー協議会が主催し、ジーンズの似合う芸能人を選ぶ。」というのが、此の賞の趣旨。「木村拓哉氏や草剛氏、浜崎あゆみさん等が『殿堂入り』した。」等のニュースを見聞した方も多い事だろう。
歴代受賞者を眺めると、「何で此の人が選ばれているの?」と思ってしまう人が何人か居る。「ジーンズを履いているイメージが全く無い人」すら居るのだ。ハッキリ言ってしまうと「ジーンズが似合うかどうか?」なんていうのは二の次三の次で、要は「今、旬な有名人に受賞させる。」というのが最重要視されている気がする。まあ、そういうのは此の賞だけでは無く、「納豆クイーン」なんかもそうだし、結構多いのではないか?
2006年以降、首相が毎年交代している我が国。「こうもコロコロと首相が変わる様では、他国が日本を信頼してくれなくなる。」、「与野党共に政争に明け暮れ、国民を一顧だにしていない。」、「もっと真面目に政治を行って欲しい。」等々の不平不満を持つ国民は多い筈だ。だからこそ「アメリカの様に、日本も直接『国のトップ』を決められる様にして欲しい。」(厳密に言えば、アメリカ国民も“直接的に”大統領を選んでいるという訳では無いけれど。)という声が、しばしば上がるのだろう。
昔は自分も「国民投票で、首相を選べる様になれば良いのに。」と思った時期が在った。しかし今は、「国民投票での首相決定」に危うさを感じている。冒頭で記した様に「単なる旬の人選び」、即ち「人気投票」になってしまう懸念を持つからだ。
マスメディアでは良く、「次の首相に相応しい政治家は誰?」といったアンケートを行っている。菅降ろしが激しくなった頃より、同様のアンケート結果が色々発表されているが、其れ等を見ていると「真面目に考えての投票なら良いけど、『面白そうだから。』とか『見栄えが良いから。』等、単なる人気投票と考えているのではないか?」と思ってしまう事が結構在る。「“乱世の小沢”と言われ続けていたけれど、大震災への具体的な取り組みをせずに政争に明け暮れている小沢一郎氏を選ぶかなあ?」、「脇が余りに甘過ぎる前原誠司氏じゃあねえ・・・。」、「“逃げの小五郎”ならぬ“逃げの伸晃”を首相にって・・・冗談だろ?」、「確かに正論を吐いているけれど、言うだけで実行が伴っていない小泉進次郎氏を首相に推すの!?」等々、どうにも理解出来ないケースが。(勿論、中にはじっくり考えた上で、其れなりの理由を持って推した人達も居るとは思うけれど。)
興味深いのは、「数年前ならば此の手のアンケートで断トツの人気だった舛添要一氏が、今じゃあ影も形も無かったり、選ばれていても極めて少数派に属してしまっている。」という現実。「御手並み拝見」や「政治はゲームじゃない」等、過去に何度か「舛添氏に大きな期待を寄せる風潮」に疑問を記した。「自分の手柄は自分の物。他人の手柄も自分の物。」とか「スタンドプレーが大好き。」といった面が、一国のトップとして相応しいとは思えなかったから。「自分を100%抑える必要は無いけれど、一国のトップで在る以上は“或る程度”自分を抑えてでも、国民の為に犠牲になれる。」という気持ちが、“本来は”首相に必要な筈だ。だから“今”、舛添氏の名前が上がらなくなったのは「当然だろうなあ。」とは思うけれど、でも「じゃあ数年前迄、あんなに熱狂的に舛添氏を支持していた人達は何だったのだろう?」と感じてしまう。「結局は『人気投票』の感覚で、選んだ人が多かったのではないのかなあ?」とも。
此の5年間、コロコロ変わった首相達だって、就任当初の支持率は決して低くなかった。マスメディアが調べる「支持率」がどれだけ信頼性が在るかは別にしても、其れなりの高い支持率を得ていたのは確かだろう。其れなのに「1年も経たない内に『もう飽きちゃった!』と許りに見放す国民性」、もっと言えば「一方向にワッと流れるけれど、暫くすると全く逆方向にワッと流れる国民性。」を多くが有している以上、「国民が直接首相を選ぶスタイル」には怖さを覚えてしまうのだ。又、「立候補者の票が割れた場合、(立候補している)カルト組織の教祖が漁夫の利を得て首相に当選してしまう。」なんて悪夢も否定は出来ないし。
そんな訳で自分は「国民が直接首相を選ぶスタイル」には反対なのだが、では皆様にズバリ聞きます!「貴方は『国民が直接首相を選ぶスタイル』を、どう思われますか?」
今まで選んできて今政治家をやっている人たちですら、現実にこの有様なのに直接国のトップを選んだら、国民の信任を得たとして、極端な政治(要するに独裁)が行われる気がします。特に、都知事や大阪府知事を見ていると。
同様に、ろくに調べもしないで「他に人がいないから」との理由で現状を追認する消極的支持にも、この国の国民性の危うさを感じています。
あの一派を率いている橋下府知事も、首相公選制論者の急先鋒ですよね。
グダグダな政治にいやけのさした市民が、若く強く実行力あるリーダーを求め、信念と行動力のある政治家がそれに応えてトップの座につくが、気が付くと彼は「独裁者」への道を歩んでいた──まるで『銀河英雄伝説』冒頭部分のようだなあ、と。
「管理者(giants-55)が承認する迄、頂戴したコメントは画面上に反映されない。」というスタイルを取っておりますので、悠々遊様及び青空百景様共に「何方のコメントも表示されていない状態での書き込み」という事だったのですが、にも拘らず御両名共が「大阪維新の会」に対して懸念を持っておられるのが興味深くも在りました。
旧態依然とした仕組み、其れも長期に亘って維持されて来た仕組みを変えるには、或る程度強引な遣り方も時には必要とは思います。唯、橋本府知事(石原都知事もそうですが。)の遣り方というのは「仮想敵を作り上げ、マスメディアを上手く使ってプロパガンダを行う事で世論を一方向に誘導し、そして遮二無二押し通す。」というスタイルで、此れは小泉政権下で特に顕著になった方法論ですよね。民主党が政権交代を成し遂げられたのも「官僚」という仮想敵を設定した事が大きいだろうし、河村たかし市長率いる「減税日本」も同様。
仮に指導者が清廉潔白な人間で在った“としても”、其の側近達が同じとは限らない。一人の人間に強権を持たせてしまう事は、御両名が懸念されている様な危うさを自分も感じます。
良く指摘される事では在りますが、彼のヒットラー率いるナチス党も抑は「選挙」を通して巨大化して行った。詰まり或る日突然に巨大化した訳では無く、「ユダヤ人」という仮想敵を掲げたナチス党を巨大化させたのはドイツ国民だった訳です。其の恐ろしさを、世界の国民は改めて心に刻まなければいけないでしょうね。
我が国の国民に目を転じると、「為政者の言動を検証しない(乃至は「為政者に対して、自身の言動を検証させない。」)」というのが、諸悪の根源に在る気がします。原発問題一つを取ってしても、現政権の不手際を責めるのは当然の事だけれど、同時に「“結果として”原発問題を放置して来た自分自身」のスタンスも検証しなければいけないし、「『原発は安全』とほぼ無根拠に近い形で言い続けて来た自民党」のスタンスも検証しなければ(させなければ)いけない筈。石破茂氏や小泉進次郎氏が「自民党による原発の安全対策を検証する必要が在る。」と言ったのは拍手を送りたいけれど、でも其れからそこそこ経つのに、具体的な検証を行った形跡は全く無い。憲法改正だ内閣不信任だという“具体的な”動きはしっかり見せているのですから、「検証する時間が無かった。」とは言わせない。為政者が大声で主張したら、其れで実際に行動を起こした物と捉えてしまう人が少なく無いのは、政治を駄目にしてしまっている大きな要因に感じます。
大阪府は確かに先行き不安です。
鳥取県や福井県のような県を公然と侮辱したあたりがまたキナ臭い。しかしああいうのにシビれる安易な都会者多いのも確かなんでしょうね。橋下は小沢さんに憧れてるようなこと言ってましたね。
また原発の件も即全廃は安易です。代替エネルギーはどうするのか?しかし安易で極端なフィーリングを好む我らの国のマジョリティー・・・。
なんなら天皇親政でもいいです。それぐらいこの国の民主主義に失望しています。なんとなく。
そういえば舛添さんはどこへ消えたんでしょう?忘れてました。
橋下府知事(悠々遊様&青空百景様へのレスで「橋本府知事」と誤記しており、失礼致しました。)の遣り方に懸念を持っておられる方が少ない事に、少々意外な思いも。自分自身は皆様と同様に「一寸怖いな。」と懸念を持っていたのですが、以前よりは下がったと言え、其れでも大阪府内での彼の支持率は結構高い様なので。
飽く迄も推測ですが、大阪府では「特定の組織」が「差別問題」を悪用して、不当な利益を得続けているという話が在り、其の事に憤りを感じている一般府民(或る意味、逆差別を受けているとも言えますが。)が、「背景には規律の乱れが在るのではないか?」と感じており、故に橋下府知事の強引にも思える遣り方を結果的に支持しているという面も在るのかなあと。
原発問題、自分は「廃止派」なのですが、だからと言って「即廃止せよ!」というのは無茶だと思っています。代替エネルギーを今迄以上に真剣に改良&検討して行き、少しづつ切り替えて行く、即ち「原発の穏やかなフェイド・アウト」というのが現実的に思っています。
あんなにも支持率が高かった舛添氏が、今や殆ど票が入らない不思議さ。熱狂的に彼を支持していた人達は、何の疑問も感じていないのだろうか?此の点も不思議でなりません。
何年か前に「希望は戦争」と言った青年がいましたが、その青年も「震災後のムードに違和感」と書いていた。震災の破壊を希望にしている人がいる、と。もちろんそれは被災地域の人であるはずはなく、他所の10~40?代の人なのでしょう。
>大阪府内
知っている大阪府民はあまりよく言っていませんでした。しかしその人たちは一流企業社員だったり、零細企業経営者だが地区の名士で近所の小学校の入学式に来賓で呼ばれるような人、で「既得権益層」に当たるからなのかもしれません。そうでない人はメディアに煽られて彼を支持する、あるいは完璧な破壊を望んでいるのかも。
>原発の穏やかなフェイド・アウト
30年はゆうにかかると思いますが、そうなることを私も望んでいます(その場合六ヶ所村の施設みたいなのはどういう扱いになるのだろう?)
>自民党
そうですね。しかし自分はいわゆる「反対派」にもいかがわしさを感じています。今現在がそうですが、数値等から類推されることよりも遥かに過大なことを言って恐怖をあおり、反対運動を盛り上げようとしている人が多い印象を持つのです。これは敦賀だったり、東海村の事故の際だったり他でも使った手段なのでしょうが、それはそのときの大衆のメンタリティーを瞬間的に捉えても、地元(若狭滋賀、京都の日本海側周辺や茨城等)からの理解は得られたのだろうか?と思うのです。「村八分を恐れて沈黙しているのだ」という報道も当然あったと思うのですが、果たしてそれだけだったのだろうか?と感じるんです。青森の六ヶ所村では従来の推進側でだけではなく(原発のある所、計画のある所には必ず反対派の鎮圧目的で暴力団が雇われるのです。反対派は必死なので電力関係社員を襲うことも厭わないし、中核派や革マルのような過激派も多く来ますからね)、反対側にも暴力団が付いて、恐怖を煽って金を取ろうとするものがいるのだと読みました。こういう場合逆効果なのではないかと。田舎の人はヤクザも嫌だろうし、当然中核派だって嫌ですよ。結局大方の地元の人は旧知の自民党議員や町や村の幹部を信用する感情のほうが強くなったのだろう、と思ったんです。
長文失礼しました。
Eテレ(旧教育テレビ)で放送されている「さかのぼり日本史」(http://www.nhk.or.jp/sakanobori/)という番組が好きで、毎週録画して視聴しています。「歴史上の或る事実を取り上げ、『何故そういう状況に到ってしまったのか?』を、過去に遡る事で検証して行くという内容なのですが、先週からは「昭和~明治 挫折した政党政治」というタイトルにて「5・15事件によって終わりを遂げた戦前の政党政治。何故、政党政治は挫折を余儀無くされたのか?」に付いて検証。
「二大政党制が構築されたものの、両党共に国民生活から乖離した華々しい政策をバンバン打ち出す一方で、重箱の隅を突っ突く様な揚げ足取り合戦に走る。国民の間に政治不信が高まる中、勇ましい主張を繰り広げる軍部へと国民は共感を覚え、軍部の台頭に繋がって行く。」
軍部の台頭云々は別にして、何やら今の我が国の状況と非常に似ている気がします。と言うか古今東西を問わず、政治不信が高まりを見せると、極論を打ち出す輩に国民が盲目的に追随するというのはまま在るケースと言えましょうね。「人類は進化してている。」と言うけれど、「同じ過ちを繰り返している。」という点では、全く進化していないとも言える。「歴史を学ぶ」というのは単に年号を暗記するという事では無く、同じ過ちを繰り返さない為に「過去の失敗を知る」という事なのだと、自分は思います。
旧体制で散々「旨味」を享受して来た人達が、新体制に関して何から何迄「反対!」を唱えるのと同様に、明るい未来を見出せない人達が「世界が破滅すれば良い。」といった風に「破滅願望」を持ってしまうのでしょうか。本当に困ったものです。
事実を矮小化するのも、又、逆に巨大化してしまうのも、何方も百害在って一利無しだと思っています。概してこういった手法を取るのは自身の私利私欲を充足させんが為で在り、「国民の為」というのは単なる御為倒しに過ぎないもの。
大変長くなります、ごめんなさい。
私もgiants-55さんと同じ考えを持っていたため、驚きとともに頷きながら読ませて頂きました。特に、“古株”を筆頭に議員への評価の部分を中心に^^
世論調査は調査対象、例えば地域・人数等でも変わってきますし、調査方法が電話か面接方式か、また質問の順番や内容さらに選択肢によっても結果が変わることはよく知られているところ。
総理候補も選択肢から選んだのか自由に名前を挙げたのかで大きく違う。
新聞では質問内容の記載はありますが、テレビでは簡単にしか説明しない。ミスリードしやすく、適切ではありません。
そもそも数字自身に改竄の可能性があり、確認しようもないため日頃の信頼があってこそ成り立つのですが、さてどうでしょう。
政局になると取り分けマスコミやネット上は騒がしくなりますが、今は震災も重なり政治に纏わる情報の信憑性を計り兼ねる毎日です。
混乱期にはあちらこちらで不穏な動きが目に付くもの。
政治家だけでなく、それに擦り寄り“利用する人達”もいる。議員のみならず思惑絡みの潰し合いの様相を呈してる…。
マスコミ等が作り上げたいとする急進的な流れに対する違和感と危険性を強くしています。
“橋下知事”の件ですが、政治手法もさることながら最も懸念しているのは、ご本人やその“後見人”さらに“非常に懇意とされる起業家”がマスコミに多大な影響力を有していることです。
一般的に政治家がマスコミと上手く付き合うことは否定しませんが、政治家側が如何様にもコントロールできたりマスコミ側が『本気』で批判しない状況は何を齎すのか言うに及ばず。
プロレスであるならば視聴者がプロレスだと分からなくてはなりませんが、多数に悟られるような下手は打たないでしょうからね。
“古株”がまた動き出すようです。
今の自分に何ができるのか。「ライ麦畑でつかまえて」の一節と「右の目は熱く、左の目は冷たく、心には氷の炎を持て」の言葉が浮かびました。
非力だと嘆かず、行動しなくてはいけませんね。
>世論調査は調査対象、例えば地域・人数等でも変わってきますし、調査方法が電話か面接方式か、また質問の順番や内容さらに選択肢によっても結果が変わることはよく知られているところ。
仰る通りですね。「原発に関するアンケート」にしても「廃止」と「存続」という選択肢しか無い場合には、「将来的には廃止した方が良いけれど、直ちに廃止というのは色んな面で無理が在る。」といった「条件付きでXX」といった考え方の人の意見が反映されない。万が一「何方とも言えない。」という選択肢が在り、そういった考え方の人が此の選択肢を選んだとしても、「『何方とも言えない。』って、何も考えてないんだな。」と否定的に捉えられてしまい兼ねないし。選択肢をチョイスするスタイルのアンケートには、そういった危うさが在る事を、多くの人は考慮しないといけないでしょうね。
マスメディアも好い加減に、「扇情的に報道するスタイル」を止めて欲しい。面白がったりする人が少なくないからこそ、そういったスタイルは廃れないどころか、ドンドン酷くなっているとも言えるのでしょうが、「政治に無関心な若者が増えている。」なんぞと大仰に報じているけれど、扇情的な報道がどれだけ政治に無関心な国民を生み出しているのかを認識して貰いたい。
何度も当ブログで書いているけれど、菅首相の遣って来た事に疑問を感じる点が少なくは無い。でも「菅首相が辞めさえすれば、世の中の出来事が100%好転する。」とでも言わんばかりの政治“屋”やマスメディアには違和感が。「アンタッチャブルな原発問題に菅首相が手を突っ込んだ事で、ドップリと原発利権に浸かっている政治“屋”や企業、マスメディアが一気に菅降ろしに乗り出した。」という一部報道が事実ならば、こんなにも国民を馬鹿にしている事は無い。
原発利権のドップリ使っている政治屋の中からは、「地下に原発を作れば安全だ。」という意見が出ている様ですが、不測の事態が発生した際、結局は全てを地下に封じ込めてしまうだけだろうし、何よりも地上に在るからこそ何等かの異変が発生したら国民の多くが確認出来る訳で、地下ならば余計に「隠蔽体質」が発揮されるのではないか・・・という不安を持ちます。
「非力だと嘆かず、行動しなくてはいけない。」、其の通りですね。百歩譲って「行動出来ない。」場合でも、国民の生殺与奪軒を握っている政治家の動向にはしっかりと注視を怠ってはいけないと思っています。
その経緯はこちらに書いてありますので、興味のある方はどうぞ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/kanchan42195/diary/200703A#
「いっそ、マラソンの五輪代表は国民投票で決めたら。」
という半ばヤケクソで書いた暴論が、意外にも当時、有名な陸上競技記者氏まで、ネット上の日記で採り上げられて、大変赤面しました。
さて、本題の「首相の直接国民投票の是否」についてですが、あえて一票を投じるならば、「反対」にですね。ただし、
「どんな結果が出るかには興味があるから一度やってみたらどうかな。」
とは思います。しかし、もし、実施されたとしたら取り返しのつかないことになると思います。
それにしても、今の政局報道はなんでしょう。総理を辞めさせさえすれば、全てがうまくいくと言わんばかりの言説が溢れるかと思ったら、次期総理の有力候補とされた人物への不正献金が報じられたりと、訳が分かりません。一体、何をどうしたいのでしょうか。