ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

脳死と判定されるも・・・

2010年08月10日 | 時事ネタ関連
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脳死患者から家族承諾のみで臓器提供へ 移植法改正後初」(8月9日、朝日新聞

日本臓器移植ネットワーク(移植ネット)によると、関東甲信越の病院で9日、書面による臓器提供の意思を示していなかった20代の男性が法的に脳死と判定された。本人は提供の意思を複数の家族に口頭で伝えており、家族が承諾した。家族の承諾のみで脳死下の臓器提供が行われれば、7月17日に改正臓器移植法が本格施行されてから初めての例となる。

男性は交通事故で病院に搬送された。法的脳死判定は、9日午前11時55分に2回目を実施された。脳波が平らで在る事や自発呼吸の消失等5項目の基準を満たした事を確認し、法的に脳死と判定された。

移植手術が行われるのは、心臓国立循環器病研究センター大阪)、両岡山大学病院肝臓東京大学付属病院腎臓群馬大学付属病院膵臓と腎臓同時移植が藤田保健衛生大学病院愛知)。

改正法は2006年に議員提案され、2009年7月に成立した。脳死を一律に人の死とする考えを背景に、本人の意思が不明の場合は家族の承諾で提供出来る様にしていた。提供者の年齢制限も無くし、脳死になった15歳未満からの臓器提供を可能にしている。
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昨年の記事「臓器移植」でも書いたが、「臓器移植によって救われる命が多く在るで在ろう以上は、移植の可能性が増えるのは望ましい。」と考える一方で、「『脳死が一般的な人の死』というコンセンサスが出来上がってしまうと、脳死者の家族に“有形無形の圧力”が掛かってしまうのではないか?」という懸念も持っている。「何でも自分自身の考え“のみ”が正しい!」と決め付ける人間によって、「脳死者は死者なのだから、治療するなんておかしい!」と脳死者の家族が“大きな御世話のバッシング”に晒される可能性も在るし。「脳死者からの臓器移植」が非常に難しい問題で在るのは、臓器移植法が改正された今でも変わらない様に思う。

ところで、6日に肺炎で亡くなられた女優の南美江さん(享年94歳)に関して、気になる記事を目にした。南さんは今年1月に倒れ、一旦は脳死と判定されるも、3月頃に意識が回復して車椅子に乗れるの状態になっていた。と言うのだ。この話が事実とすれば、「脳死者=100%死者」とは言えない事になる。「脳死判定」が完全に誤りだったのかかは素人の自分には判り様が無いけれど(何でもかんでも「医師が悪い!」とバッシングされる状況というのは、個人的にどうかと感じているし。)、「脳死判定」の難しさを再認識させる話では在った。

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4 コメント

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命の尊厳 (悠々遊)
2010-08-12 08:54:04
 素人考えながら、基本的には「脳死」が「人の死」だと私は思っています。心肺の働きは機械の補助によって可能ですが、いったん停止した脳波を機械によって復活させることは出来ません。いくつものコードやチューブに繋がれ、機械によって生かされていることを「人の生」といえるかどうか。

 「死」ではなく「生」を人間の尊厳の面から捉える倫理観が必要なのではないかと。
 そう考えると、脳死」を「人の死」として受け入れることは出来ても、機械のパーツ交換のよで、臓器移植には抵抗感があります。

 昔は考えが逆だったんですよ。死んでしまえば肉体はもはやただの物体。それを利用して助かる命があるなら、臓器移植は大いに歓迎。私も死ねば臓器提供しようと。
 でも、倫理観が確立していない社会で臓器移植が先行してしまうと、それこそ「借金が返せんのなら臓器を売って金を作れ」なんて・・・実際後進国の貧しい人たちではありえる話です。

 大金持ちは臓器移植でいつまでも長生きでき、貧しいものはその為のパーツとして使い捨てられる、オカルトSFのような世界が、すぐ目の前に迫っているようで。

 最近では命は「天命」と考える方向に傾いてきています。助けられる命を救うことは当り前ですが、人間の体を機械の部品のように扱う医療は、もはや医療とはいえないのではないかと。自身、腎臓癌の摘出手術を受け、生きながらえている身勝手さを棚に上げてますが、他人の臓器をもらってまで助かりたいとは思っていません。
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>悠々遊様 (giants-55)
2010-08-12 16:13:28
書き込み有難う御座いました。今回はこちらにレスを付けさせて貰います。

当ブログで何度か書いているのですが、今から32年前にTBS系列で放送されていた「赤い激突」(http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-16551)というドラマが非常に印象に残っています。頭を強打して病院に運ばれた母親が結局は植物人間になってしまうのですが、「どんな形でもずっと生き続けて欲しい。」という思いと、「機械によって生かされているだけなのは可哀想。」という思いが同じ家族内に交錯するという「植物人間と安楽死」の問題を提起したドラマでした。「植物人間になるかもしれない。」という恐怖を抱えた母親が、家族に向かって「もし私が植物人間になったとしたら、安楽死させて欲しい。」と熱望していたシーンも在り、「生きるって一体どういう事なのだろうか?」と当時の自分は考えた物です。

「何を以てして『生』とし、何を以てして『死』とするか?」に関しては、人それぞれに考え方が在って当然だと思っています。「機械によって生かされているだけならば・・・。」という思いが自分にも在りますけれど、以前の記事「臓器移植」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/4d220e976f062f8d3d2b9541e7a660e0)でも紹介させて貰った様に、「脳死宣告を受けて8年経つが、其の間に身長は伸び、体重も増えた我が子を思う親の気持ち。」というのも理解出来るし。

「性善説」が成立している“理想社会”ならば別ですが、“現実社会”では仰る様に倫理観の欠落した不埒な者が存在している訳で、臓器移植に関して良からぬ問題が起きてしまう可能性は、残念乍ら少なからず在るでしょうね。
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人は死んで終わりでない (まるみなし)
2010-08-12 21:24:56
映画「おくりびと」をみました、二回目です。
その中でこういう台詞がありました、「人間は死んで終わりではない、次の段階へ行くための門をくぐるのだ。」と。
私もそう思います、最近「尊厳死」という言葉が流行ってますが、「尊厳ある生き方」はあっても、「尊厳ある死」は無いと思います。
「脳死者」は機械によって生かされている、と言うけれども、ペースメーカーを装備した心臓が悪い人は、人工透析で血液を浄化している腎不全患者は、人工心肺をつけた人は?
臓器ネットワークの教科書で、「人には寿命があります、だからすべての人が寿命以上に長生きしようと思っても、絶対出来ません。」と言っています。
でも、それって、他人の寿命を奪っても良いってことではないでしょうね。
それとも、ドナーの寿命は、臓器をすべて摘出するまでであるとして、レシピエントの寿命はどうなるんですか。
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>まるみなし様 (giants-55)
2010-08-13 00:27:55
初めまして。書き込み有難う御座いました。

29年前に流行った曲「夢の途中(セーラー服と機関銃)」(http://www.youtube.com/watch?v=eWkwIZQC2vE)好きな曲の1つなのですが、此の曲の冒頭に「さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束」という歌詞が在ります。此の歌詞が自分は好きなのですが、「人間は死んで終わりでは無い、次の段階へ行く為の門を潜るのだ。」という台詞と相通じる部分が在る様に感じます。

「機械によって生かされている。」というのを自分は脳死者の観点から捉えていましたけれど、仰る様に脳死者では無くても機械によって生かされている人は居られますね。言葉足らずで申し訳無かったのですが、自分は「“当事者”が意識を持たない状態で、機械によって生かされているというのは、本当に生きていると言えるのだろうか?」という思いがずっと在り、そういう意味合いで書いた訳ですが、でもこれもあくまでも私見で在って、此の考えが絶対的に正しいなんて思ってはいないんです。「人の生死」に関しては十人十色の考え方が在るだろうし、どれが正しくどれが誤りと決め付けられるべき物では無いだろうし。

「レシピエントの寿命」というのも「臓器移植自体をどう捉えるか?」によって、異なった考え方が在りましょうね。

今後とも何卒宜しく御願い致します。
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