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「光市母子殺害事件、元少年の死刑確定へ・・・上告棄却」(2月20日、読売新聞)
山口県光市で1999年に母子2人が殺害された事件で、殺人や強姦致死等の罪に問われ、差し戻し後の控訴審で死刑となった元会社員大月孝行被告(30歳)【犯行時18歳1ヶ月】に付いて、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は20日、被告の上告を棄却する判決を言い渡した。死刑が確定する。
判決によると、大月被告は1999年4月、排水検査の作業員を装って近所の会社員本村洋さん方を訪れ、妻弥生さん(当時23歳)を乱暴目的で襲って、抵抗された事から両手で首を絞めて殺害した。泣き止まなかった長女の夕夏ちゃん(同11ヶ月)も、紐で首を絞めて殺し、財布を盗んで逃走した。
最高裁によると、記録が残る1966年以降、犯行時少年で死刑が確定したのは12人。1960~1970年代は被害者が1人のケースも在ったが、連続射殺事件の永山則夫・元死刑囚(犯行時19歳)の判決確定(1990年)以降は、何れも被害者数が4人だった。
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「職務放棄か?はたまた完遂か?」等、過去の記事で何度も書いて来た様に、自分は「死刑制度賛成派」で在る。そして「光市母子殺害事件」の被告に関しては、「死刑以外は在り得ない。」と思っている。其の理由は4年前の記事「人には死刑を!! Part1&Part2」に詳しく書いているので、其方を見て戴ければと思うが、「犯行が余りに残酷な事。(冒頭で紹介した記事では「夕夏ちゃん(同11ヶ月)も、紐で首を絞めて殺した。」としか記されていないが、「絞殺する前に、有夏ちゃんを床に叩き付けていた。」事が法廷で明らかにされている。)」や、「一審で『無期懲役』の判決が下されて以降に被告が知人に出した手紙等を見ると、全く反省しているとは思えない事。」等が、自分が「死刑以外に在り得ない。」と思う所以。だから今回の「上告棄却→死刑確定」という結果には、ホッとした思いが在る。
唯、「ホッとした思い」は在っても、「死刑になって万歳!」みたいな喜びの気持ちは無い。「何でも彼んでも死刑にすれば良い。」とか、「死刑にしさえすれば、全てが丸く納まる。」なんぞとは思っていないので。「不備無く、徹底的に調べ上げた上で『死刑が妥当で在る。』と判断された場合には、粛々と死刑判決を下すべき。」と考えているだけの事。
事件発生から13年。妻子の無念さを晴らすべく、必死で闘って来られた本村洋氏には「御疲れ様でした。」という言葉しか無い。彼の闘い無かりせば、「加害者及び其の親族には寛容で、被害者及び其の親族には苛烈。」という法体制やマスメディアの姿勢が、改善に向けて動き出す事は無かっただろう。
もし被告が卑劣極まり無い手紙を知人に送っていなかったならば、「悔悛しており、立ち直りが期待される。」として、死刑判決が下される事は無かったろう。そう考えると、「悔悛なんか全くしていないのに、死刑を免れる為だけに『然も悔悛している様な言動』をアピールし続け、結果としてまんまと死刑を免れた輩が、此れ迄に居た可能性。」も否定は出来ない。其れは其れで、理不尽さを感じる。
「刑罰」に関して、「神が人間を裁くというのならば判るが、完璧では無い、欠点多き人間が、同じ人間を裁くというのは烏滸がましい事ではないか?」という意見が在りますよね。確かに其れは否定出来なく、況してや最高刑でも在る「死刑」ならば、そういう思いを強く持たれる方が居ても、其れはおかしくないと思っています。
唯、欠点多い人間が構成する社会だからこそ、「一定の規範」を設け、其れに則って厳然と裁き、粛々と刑罰を加えるというのは、社会の安寧を保つ為にも必要だと考えるのです。
「裁判は、仇討で在ってはならない。」というのは、自分も正論だと思うし、此の考え方は出来得る限り遵守しなければいけないとも思います。でも、「人間社会で起こった事を、100%感情を度外視して裁く。」というのも違う気がするのです。ぷりな様も書かれておられる様に、「情状酌量」というのが概して「加害者に対するプラス感情の介在」で在るならば、被害者に対しても同等の物が在っても良いのではないかと感じたりするのです。(感情云々では在りませんが、個人的には「恩赦」というのは妙な制度と思っています。)
マスメディアによる報道が、裁判に悪影響を及ぼす事は結構在りそう。凶悪犯罪を引き起こした者が逮捕されると、「此の容疑者は、近くのレンタルショップでスプラッター物を良く借りていました。」とか、「小学校卒業時の文集に、こんな気味悪い文章を寄せていました。」とか映像入りで報じたりしていますが、「ああいうのは。個人情報の観点で問題にならないのだろうか?」、「世論を、マイナス方向に誘導しているのではないか?」と感じるので。
まず、裁判というのは「起こったことをできる限り明らかにし、1つ1つの項目について真偽を判断し、それを総合して量刑を決めること」であって仇討ではないはずだ、という思いです。マヌケ様のおっしゃるように、「ご遺族の並々ならぬ努力で社会全体を動かしたというのも司法のあり方としてはどうなのだろう」という違和感がありました。
次に、上記の思いとは逆に、「量刑に情状酌量があるということは、100%感情を排したわけではない。ならば被害者側の思いも反映しても良いのではないか」という思いです。もし、被害者側が犯人を独自に突き止めて仇討を敢行して捕まり、先の事件の被害者であることをもって、量刑に情状酌量がなされるのであれば、仇討行為に及んでいない被害者の感情も考慮しても良いのではないかという気持ちがありました。
減刑の為だけに、悔悛している様な言動をアピールし続け、減刑に成功した輩がいた可能性はあるだろうし、理不尽だと思います。
しかし、いろいろな事件についての報道で、「事件を起こしたのはこういう体験をしたから。その体験をしたのは本人のこういう性格のせい」という報道をさんざんやった後に、「閉廷後、遺族に向かって一礼し…」という傍聴レポートがあっても、視聴者に「こいつもどうせポーズだろう」という見方を植え付けてしまうのではないかと思います。
「死刑という刑罰を野蛮と捉えるか否か。」、「少年に死刑を適用するというのは、果たして適切なのか否か。」、「死刑制度は是なのか非なのか。」等々、死刑制度を巡る事項には賛否両論在る事でしょう。「誰の考えが唯一無二的に正しい。」と決められる事柄では無く(強いて言えば、「法律で死刑制度が定められている以上、冤罪の可能性が否定出来ないケースを除いては、法務大臣は粛々と執行を行う。」という事は、個人的に「絶対的に正しい。」と捉えていますけれども。)、色々な意見が在るからこそ、健全な社会とも言えるでしょうね。
旧来の「殺めた人数が1人ならば、死刑にはならない。」という“原則”が、「複数人を殺めたら死刑というのは、単に『そんなにも多くの人を殺めたのは、非常に許し難い。』という感情的な面が否定出来ない。」のと同様に、「こんな判決は許せない。極刑を科すべきだ!』という世論に判決が左右されてしまうのも、感情的な面が否定出来ない。」のは事実。「条文に当て嵌める。」と言っても、其処から感情を全て排除するのは無理だろうし、必ずしも全て排除しなくても良い様にも感じたりします。感情が介在し過ぎるのは、為政者の都合で悪用される可能性も在り、其れは問題ですけれど。
個人的には「子供だから」とか「大人だから」という括りで、「犯罪」を裁くのは難しくなって来ている気がします。