当ブログを立ち上げて、間も無く13年4ヶ月を迎え様としている。其の間に書き上げた記事は昨日の段階で4,934件となり、記事のタイトルだけでは何を書いたのか忘れてしまった物も結構在ったりする。今回のテーマも過去に何度か書いたのは間違い無いのだが、皆様への問い掛けという形で書いた事は恐らく無い筈。万が一、過去に同じ様な問い掛けをしていたとしたら、記憶力悪い人間のミスとして看過して戴けると幸い。
11月1日の記事「ネクロフィリア」で取り上げたが、「座間9人連続殺人事件」の全容は明らかとなっていないが、事件の異様性は徐々に増す許り。9人とされている全員がそうかは判らないけれど、“自殺願望”という“弱った心の隙”に付け込んで惨殺したのだとしたら、白石隆浩容疑者に対して強い怒りを覚えるし、法廷で厳しく裁いて欲しい。
世間を震撼させる事件、特に今回の様な猟奇的事件が発生すると、マス・メディアは加害者関連のみならず、被害者関連の個人情報をも、次々に大きく報道する。インターネットが普及した今、一般人も個人情報の暴露&拡散に加担している始末。
被害者関連の個人情報を面白おかしく取り上げるのは絶対に許されないし、又、全く無関係な人間を事件の関係者としてインターネット上で取り上げた事で、多大な被害を生み出している事も少なく無いと聞く。
加害者関連の個人情報に関しても、加害者の家族に関する物が次々と取り上げられるのもどうかと思うし、「加害者とはいえ、此処迄報道(又は暴露&拡散)するのは、幾ら何でも遣り過ぎ。」と感じてしまう事が、近年は結構多い。面白おかしく暴露&拡散するのは論外だし、仮に“正義の思い”からした事としても、法律に則らずに加害者及び其の家族を“集団リンチ”する権限は誰にも無い筈だ。
で、今日の記事は、「犯罪報道に於けるの個人情報の取り扱い」に付いて。話が広がり過ぎてしまうので、対象は一般人では無く、マスメディアに絞る。又、判り易くする為、今回の事件を対象にして話をする。
論点は大きく分けて、「加害者関連の個人情報」と「被害者関連の個人情報」。
先ずは「加害者関連の個人情報」に付いてだが、“加害者を生み出した環境”というのを知り、“今後の対策”を立てる上で、或る程度報道されるのは仕方無い事だろう。永山則夫元死刑囚の様に、「幼き頃の余りに過酷で劣悪な環境が、残酷な事件を起こす大きな要因となっている。」事も在り、そういった事実を知る事で、社会として考え&改めて行く問題点が見付かるから。
でも、近年、世間を震撼させる事件が起こると、必ず加害者が卒業文集に書いた記事や卒業アルバムの写真を取り上げるのは、個人的にどうかと思っている。「罪を犯したのだから、何をされても仕方無い。」という事なのかもしれないが、犯行とは直接無関係な個人情報を報道するというのはおかしい。
今回の事件で言えば、「加害者は、男性に体を売っていた。」とか「加害者は、性転換を考えていた。」という報道、挙句には「加害者が泥酔し、全裸で眠りこけている写真。」迄もが週刊誌に載る始末。(状況を理解して貰う意味合いからとはいえ、こういう事を書いてしまっている自分も同罪なのだけれど。)こういった事柄が事件に関係在るとは全く思えず、単なる“覗き見趣味”だ。加害者が法律に則って裁かれるは当然の事だけれど、何でも彼んでも個人情報を暴露されて良い訳では無い。加害者だって、“守られるべき人権”は守らなければならない。
加害者の家族に関する個人情報も、次々と報じられている。「両親はどういった人間で、妹は有名な大学を卒業して働いている。」という具合にだ。流石に個人名や勤務先名、卒業した大学名等は報じられていないと思うが、特定した(又は嘘の)情報をネット上で拡散する連中も出て来る事だろう。「事件を起こしたら加害者のみならず、一族郎党罰せられて当然。」的な考え方は、明らかに間違っている。加害者を生み出した環境を知るという意味では、“常識的範囲内”で家族の個人情報が報道される事を否定しないけれど、「一族郎党も、罰せられるのは当然。」といった感じの報道は許されない。
次に「被害者関連の個人情報」に付いて。「被害者の家族の個人情報が報道されるのは、“原則的に”在ってならない。」と考えている。「事件には、全く無関係な情報。」と思うから。
では、被害者自身に関する個人情報はどうか?「実名や顔写真が報じられるのは、“原則的に”在り。」と考えるが、今回の事件の様に「被害者達は、自殺願望が在った。」という報道が在った後では、被害者家族の感情を考慮し、実名や顔写真を報じないとという形も必要ではないだろうか。「被害者のプライヴァシーが著しく棄損される可能性が在る際には、警察が被害者家族(の代表)に確認し、『実名や顔写真を出して構わない。』とした時だけ報じる。」というスタンスが在っても良い様に思う。
“内部的に公になっている”とはいえ、加害者の卒業文集上の記事や卒業アルバムの写真を安直に報道するというのも、個人的には「成る可く控えた方が良い。」と思っている。被害者達は亡くなった事で、「其れ等を大々的に報道される。」事に対して「止めてくれ。」とは言えないのだから。「こんなにも良い子が、あんな残酷な殺され方をしたんですよ。」といった“御涙頂戴的効果”を期待してマス・メディアが報じているのだとしたら、被害者に対して失礼だろう。
今回の問題、“正解”という物は存在せず、人によって様々な考え方が在るだろう。其れを理解して戴いた上で、皆様にズバリ聞きます。「犯罪報道に於けるの個人情報の取り扱い、『加害者関連』と『被害者関連』とに分けた上で、どう考えますか?」。
人間って余程の人で無い限り、大なり小なり“覗き見趣味”的な物は在ると思うんです。斯く言う自分も在るし。
「容疑者の過去の犯歴を持ち出す。」、此れは事件の全面解決や同様の犯罪を生み出さない為の環境作り等、どうしても必要な場合には「在り。」でしょうが、興味本位で持ち出すのはNGでしょうね。「今回は罪を犯したかもしれないけれど、刑罰を受けて罪を償った案件迄持ち出し、“合わせ技”の様な形で糾弾するのは、刑罰の本来の趣旨からは離れると思うし。
刑事の聞き込みが在ったんですね。刑事ドラマでは見ますが、実際にそういう経験をした事が無いので、当事者となったら凄く緊張しそう。マスコミ対応のアドヴァイスというのも刑事ドラマでは良く見掛けますが、実際にそういうアドヴァイスが在るんですね。
仰る通り、“彼”は未だ“容疑者”の段階で在り、“加害者”と断じてしまうのは正確では在りませんね。現段階では取調官も驚く程に、犯行を微に入り細に入り自供している様ですが、裁判で判決が下されてはいないし、何よりも彼が今後、自供を翻す可能性も在る。
今回の事件、“非常に閉ざされた空間”で行われた可能性が在り、そういう意味では“証拠集め”が大変。“凶器”が押収されたとしても、雫石様が書かれている様に「被害者達から懇願され、自殺を手伝い、そして死体を損壊した。」という風に彼が自供を変えたなら、此れは「自殺幇助罪」及び「死体損壊罪・死体遺棄罪」となるで在りましょうから、(状況から考えて)確実に死刑が求刑されるで在ろう「殺人罪」からすると、大分軽い刑になる可能性が在る。もっと言えば、「『自殺したい。』と言っていた人達に、自分は場所を提供していただけ。帰宅したら本当に自殺していたので、仕方無く死体を損壊&遺棄しただけ。」と主張した“ならば”、此れは「死体損壊罪・死体遺棄罪」だけの適用となるだろうから、「3年以下の懲役」という事になる。裁判を見守って行く必要が在りますね。
被害者関連は論外だけれど、加害者関連の個人情報を暴露&拡散している人の中には、少数派だろうけれど“正義の思い”からそういう事をしている人も居るでしょう。でも、だからと言って、そういった行為が許される訳では無い。日本は法治国家なのですから、事件が起これば法律に則って裁かれるべきだから。正義の思いが在ろうと無かろうと、法に基づかないそういった行為は、単なる“死刑”で在り、又は“ストレス発散”でしか無いからです。
事件がまだ一般に公表される前に、刑事が聞き込みに回ってきて、被害者や容疑者について知っていることはないか聞かれた事があります。
その最後に刑事から「マスコミ関係も聞きに来るかもしれませんが、あまり相手にしないようにしてください」と言われた経験があります。
先ず加害者報道について。
Keiさんに賛成です。容疑者の顔写真を警察で用意・配布すべきでしょう。
ただ犯罪履歴は別として、マスコミが容疑者の過去にまで踏み込んで興味本位に報道することにはいつも不快感を感じています。
容疑者といえど犯人(犯罪者)と確定したわけでもないし、公共の利益を隠れ蓑に読者・視聴者の覗き見趣味に迎合しているに過ぎないと感じるからです。
犯罪心理学上必要な情報であるとするなら、まずその筋の専門機関なりにだけ情報提供し、十分議論分析したうえで、犯罪に至った経緯や考え方の変化のみを一般公開すべきだと思います。
被害者情報についても、概ねgiants-55さんやkeiさんに同感。
被害者やその家族の同意があって初めて公開するというルール作りが必要でしょう。
繰り返しになりますが、報道の自由や公共の利益優先を錦の御旗に、芸能人・タレントの違法性のないスキャンダルまでも、これでもかと興味本位に個人情報を垂れ流すマスコミの報道姿勢にはうんざりしています。
事件の容疑者情報・被害者情報もその延長線上にあるのは確かでしょう。
世間が求めるからという言い訳ですが、それでメシを食っている(利益を得ている)のはマスコミの側ですから、飯のタネになるなら何をやってもいいのかという本質を自らに問うべきかと。
需要があるから供給する、という理屈を無制限に認めれば、暴力団による「みかじめ料」も、こうした物騒な世の中だからという理屈で、用心棒代として認めてしまうことになるでしょう。
「加害者」である。と、断定できるのは裁判所だけです。今の段階では、容疑は死体損壊だけで、殺人の容疑は、いまはまだ固まってません。ひょっとすると、白石某は、殺人ではなく、自殺ほう助だけかもしれません。これもあくまで「容疑」です。
加害者の周辺を取材し報道するのは、ある意味社会的な制裁となるわけですね。今のだんかいでは、容疑者およびその周辺は、一般の市民です。一般の市民に制裁を加えるのは、これも犯罪的といってもいいでしょう。
「容疑者」を裁判所が、有罪、こいつは犯罪者であるとの判決を下せば、法にのっとった、「お仕置き」を、しかるべき手順、機関、でくだすべきだと思います。
言われてみれば、確かにそうですね。タイガー・ウッズ選手が逮捕された際、余りにも風貌が変わってしまった写真が報道されましたが、彼の写真は警察内で撮影され、報道機関に配布された感じでしたものね。日本でも逮捕されたら直ぐに、容疑者の写真を報道機関に配布する形にすれば、卒業アルバム等からの写真流用という事は無くなるだろうし。何等かの理由が在るのかもしれないけれど、一考すべき点ですね。勉強になりました。
卒業文集の記事等から、加害者が加害者になって行く過程が読み取れるケースも在る。自分も、そういう場合には、記事の流用は在りだと考えます。
報道とはどうしても扇情的な部分が在るのは否定出来ないし、節度を有すれば、或る程度の事は看過しても良いと思う。でも、今の日本の報道スタイルは加害者のみならず、被害者にとっても決して良いスタンスとは思えない。何でも彼んでも罰則で対処するというのは好ましい事とは思えないけれど、節度を余りにも逸したケースは罰則で対処しないといけないだろうし、特に“一般人による暴露”という形の“集団リンチ”には、そろそろ厳罰を科さないと不味いなという気がしています。(此れも限度を超えると、言論の自由等を抑圧してしまう危険性が在るので、其の辺は留意しないといけませんが。)
まず、加害者の卒業アルバムの写真報道について。
これは私もどうかと思いますが、その原因を作っているのは警察です。
あるジャーナリストが指摘している事ですが、犯人が逮捕された場合、警察はその犯人の写真をなかなかマスコミに出さないのです。実名が公表されている以上、警察は犯人の逮捕時の正面顔写真をマスコミに配布すればいいと思うのです。海外では逮捕直後に、必ず犯人の正面顔写真が新聞・テレビに出ています。ところが日本の場合は警察は何を考えてるのか、犯人の写真をなかなかマスコミに提供しません。仕方がないのでマスコミ側で写真探しに走るハメとなり、結果、卒業アルバム等で学生時代の古いスナップ写真を探し出して記事に載せるという事が常態化してしまったわけです。
これは是非警察が、逮捕時犯人写真をマスコミに配布する事を制度化すべきです。そうすればアルバム写真争奪戦も減ると思います。
ただ、卒業文集や子供時代の作文等を探し出して載せるのは、「犯人の残忍な性格がいつの時代から形成されたのか」を調査するという犯罪心理学的な目的においては、明らかにそのヒントがそれらの資料から推察出来る場合においては必ずしも否定は出来ないでしょう。節度を持った、真面目な報道目的の場合においてのみ認めてもいいとは思います。
次に被害者側の個人情報については、これはgiants-66さんが書かれている通り、警察が被害者家族と話し合って、「公表して構わない」との合意が得られた場合に限って実名や写真を公表する、という一定のルールを作り、マスコミに協力を求めればいいと思います。原則的には被害者家族とも合わせ、「同意がない場合は公表しない」という概念を定着させてゆくべきでしょう。
どの場合でも、警察側がはっきりとしたルールを制定して、ルールを厳格に守らせ、違反したマスコミにはペナルティで次回から会見場から締め出すくらいの毅然とした方針を出せば、問題はかなり解決すると思います。
ただ残念なのは、インターネット上で、例えば加害者が未成年であろうがその実名や顔写真、さらには家族の写真等が晒されるというケースが頻発している点で、マスコミが自制してもこれでは何にもなりません。IT化時代が生んだ弊害といえるでしょう。なんとか規制する事は出来ないでしょうかねぇ。
此れ迄にも数多くの猟奇的事件を見聞して来ましたが、今回の事件は一寸特異な感じは在りますね。加害者が「死にたい。」と漏らしていたと報じられる一方で、供述では「死ぬ気は全く無かった。」と語っている。そうなると死刑という物を恐れ、其れから逃れ様とする筈なのに、取り調べでは取調官が呆れてしまう位、犯行に付いて微に入り細に入り話しているとか。付き合っていた女性によると、「非常に優しかった。逆に、優し過ぎて怖い程だった。」とも。基本的には“多重人格”という物に懐疑的な自分ですが、余りにも残酷な犯行とのギャップも含め、彼の場合はそういった面が在る様な気もしています。そういう意味でも、警察や専門家が徹底的に彼を“診断”する必要が在るでしょうね。
「家族等の保護観察下に置く。」、此れは大事な事で在る一方、加害者が自身を繕っていた場合、そういった部分をも見抜き、そして保護観察して行くというのは、難しい面が在りそう。人間が判断するというのに加え、何等かの形で機械的な判断をも行うというのが、現実としては在りなのかなあという気も。
飽く迄も個人的な考えですが、「其の人間のパーソナリティーを作り上げて行く。」という面では、“学校”というよりも“家庭”の要素が非常に大きいと考えています。「個性が違う人間の集合体(=学校)の中で、社会性を学んで行く。」という意味では学校の存在意義は大きいけれど、基本は家庭だと思うんです。とは言え、家庭だけでも解決出来ない部分は在る。良く言われている事ですが、「学校と家庭、そして近隣社会との連携で、子供達を育てて行く。」という事が、核家族化した現代では昔以上に必要と思います。
被害者はもちろん、一般人として家族が保護しているのですから、家族の同意を窺うべきだと思います。難しいのは、未成年の加害者ですね。保護観察下にあって、保護観察官と家族が保護の責任を持つものもありますし、これは、大人よりも更生の可能性が高いのですが、家族の同意が得られていくべきです。仮定措置とはいえ、ペナルティを課せられているのですから、本人の発言権は抑えられるべきでしょう。社会的な保護措置なのですから、保護観察官、そして家族の意志とケアが、本人に向けられる状態を目指すべきです。
大きすぎる義務を日和見のメディアに期待するのはどうかと思いますが、報道は、犯罪であれば、それを視聴する人は、白石のような凶悪犯への責任の追及や反感を強めるだけだと思いますので、メディアが警察を超える犯人の人格分析能力や、一般への教育力を持って居るとは考えない方が良いと思います。異常者へのペナルティを与えるとか、批判する武器として威力を発揮する事はあると思いますし、犯人がメディアに望むのは、関わり合いにならない事、黙っている事でしょう。リンチ犯の方が救急車で運ばれ保護される、という事はあってはならないと思います。
犯人の個人情報として、卒業文集とか、同級生のコメントよりも、異常者をその危険性と将来のペナルティを把握出来ず、よくも世に出したものだと、悔いているであろう担任教員のコメントはもっと重んじられるべきだと思います。メディアは優れている事は分かりますが、その行動は、平等中立なものでしょう。ですが、教育とは、どんな異端的な手法であっても、それが本人の為になっていれば良いのです。教育はその指導の構造上、上下関係ありきでしょう。メディアは平等で、積極的に指導、命令しづらいのです。