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「元広島・古葉監督が全国の舞台へ!東京国際大、リーグ戦初制覇」(5月31日、スポニチ)
プロ野球広島を3度の日本シリーズ制覇に導いた名将、古葉竹識氏が監督を務める東京国際大は31日、東京新大学春季リーグで初優勝と初めての全日本大学選手権出場を決めた。同日、さいたま市川通公園球場で行われたリーグ最終週の杏林大2回戦に「11-2」で7回コールド・ゲーム勝ちして連勝、全校から勝ち点を挙げる勝ち点5の完全優勝で初制覇を飾った。
古葉監督は2008年春から東京国際大を率い、此れ迄は2009年秋の2位が最高だった。広島でリーグ優勝4度と黄金時代を築き、大洋(現横浜)でも指揮を執った。1999年に野球殿堂入りしている。
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ジャイアンツ・ファンの自分だが、カープというチームはジャイアンツに負けず劣らず好きなチーム。決して潤沢とは言えない運営資金、否、ハッキリ言って乏しい運営資金にも拘らず、知恵と激しい練習によって「少しでもチームを強くしたい。」という直向きさが感じられるし、応援するファンも「損得勘定等抜きにして、純粋にカープが好き!」という人が少なく無く、だからこそカープというチームが堪らなく愛おしくなってしまうのだ。
そんなカープが最も輝いていたのは、古葉監督が率いていた「赤ヘル軍団」時代(1975年~1985年)だったと自分は思っている。攻・走・守全てに於て実に粘っこいプレーをするチームで、対戦チームは最後の最後迄息を抜けなかったと思う。「例え苦戦していても、終わってみればカープが打っ遣り勝ちを決めていた。」なんてケースは珍しくなかったし。だから自分の中では「古葉監督=名将」という思いは今でも変わらないし(後年、ベイスターズの監督に就任した際には、良い結果を残せなかったけれど。)、“野球人としての”彼をリスペクトしてもいる。
「野球人としての」と態々但し書きしたのは、彼が一時期“迷走”し捲っていたから。“佐川マネー”の絡みで球界と距離を置かざるを得なくなった彼は2003年に広島市長戦、翌年には参議院議員選挙に出馬&落選しただけで無く、実際に出馬こそしなかったが広島県知事選への出馬も前向きだった。「政治家」という括りは同じなれど、「市長」と「国会議員」と「県知事」では其の役割も何も全く異なる訳で、「市長が駄目だったから、次は国会議員。其れが駄目だったら県知事になれれば良いや。」といった、「権力が握れれば、何でもOK。」的な匂いが自分には感じられ、「人としての」彼に幻滅させられたもの。だからこそ彼が3年前に東京国際大の野球部監督に就任した際には、「又、野球人に戻ってくれた。」と凄く嬉しかった。そんな彼が念願のリーグ優勝を果たした事を知り、心から祝福の言葉を贈りたい。本当におめでとうございます!!
唯、残念に思うのは「リーグ優勝が、もう1年早かったらなあ。」という事。其の理由は・・・。
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「“炎のストッパー”故津田投手の長男、野球にピリオド」(2010年10月19日、産経新聞)
“炎のストッパー”と呼ばれたプロ野球広島の故津田恒実投手の長男で、東京国際大4年の大毅投手が17日の東京新大学野球リーグの最終戦、東京学芸大2回戦で初登板した。打者1人に対して四球を与え6球で降板したが、「最後に投げさせて貰えて監督、コーチに感謝したい。」と感慨深げに話したと言う。(サンケイスポーツ)
胸の空く剛速球で一世を風靡した父は、脳腫瘍の為1993年に32歳の若さで亡くなった。大毅も父の後を追って野球を志し、九州学院高から九州の大学に進んだ。しかし、父を指導した元広島監督の古葉竹識氏が2008年に東京国際大監督に迎えられると、大毅も監督を慕って2年に編入した。
古葉監督によると「初めは御父さんのイメージが強く、本人も其の為に頑張らなければと力が入り、どうしても他の学生と距離が在った。」と言う。肩の故障も在り下積みが続いたが、4年生になってガラリと変わったと言う。「3年迄の迷いが無くなった様だ。グラウンド整備でも先頭に立ち“皆と一緒に遣るんだ。”の気持ちを強く感じた。」。
4年で主力になれないと練習にも出て来ないもの。父譲りで真っ向から投げ下ろしていた大毅は、横手投げに代えて練習を続け最後に登板出来た。「預かった時は私も責任を感じた。最後迄頑張ってくれて成長した。其れだけでも嬉しい。」と親子2代の指導を終え古葉監督は肩の荷を下ろした。
卒業後は一般企業に就職し野球にもピリオドを打つ。ファンが期待したプロでの津田二世の姿は見られないが、「多くの人に愛された父に人間として追い付きたい。」と言う。恩師の下で立派に成長し、天国の津田さんも嘸安心した事だろう。
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【津田恒実投手】
古葉監督が東京国際大の野球部監督に就任した際に書いた記事「父子2代で」では、古葉監督の下で野球をする事になった津田大毅選手に付いて触れた。「完璧に相手打者を封じ込める抑え投手」という事では“大魔神”こと佐々木主浩投手に軍配を上げる自分だが、「腕も折れよ!」と許りに投げ込む“熱さ”は、歴代の抑え投手の中でも津田恒実投手の右に出る者は居なかったと思っている。正に「炎のストッパー」だった。働き盛りで在り乍ら、無念の内に病で息を引き取った津田投手。妻と幼い我が子(4歳)を残しての死は、嘸心残りだった事だろう。そんな哀しい思い出が在るからこそ、大毅選手が活躍を見せ、延いてはプロ入りして「津田二世」となってくれる事を夢見ていたのだが、其れは叶わぬ夢となってしまった。
もしもリーグ優勝が1年早かったなら、「父子揃って同じ監督の下で優勝」というのが実現していた訳で、今となっては其れが残念でならない。