大学時代、法律の授業で講師の弁護士が良く口にしていたのは、「法の不遡及」に付いてだった。「実行時に適法で在った行為を、事後に定めた法令にて遡る事で違法として処罰する事、乃至は、実行時よりも後に定めた法令によって、より厳しい罰に処す事を禁止する。」という、法律解釈の大前提だ。此の大前提が守られなければ、為政者が自分にとって不都合な人間等を葬り去る 為、法令を変更した上、時間を遡って其れを適用させる。」という事が出来てしまうから。
先日、「朝霞中学生行方不明事件」の容疑者として、23歳の男性Aが逮捕された。13歳の女子中学生を2年以上も監禁したというのは絶対に許されない事で在り、(犯行が事実ならば)Aは法律によって断罪されなければならない。
Aの身柄が確保されたのは、(女子中学生が保護された日の翌日の)先月28日だった。そして、Aが在籍して“いた”千葉大学では29日に臨時教授会が開かれ、「一旦、卒業認定及び学位授与を取り消し、卒業を留保する。」との決定が下される。(因みにAが逮捕されたのは、其の2日後の3月31日。)
此の卒業取り消し報じられた際、自分は強い違和感を覚えた。「社会規範の遵守を破った。」という理由での“卒業取り消し”は「在り。」だと思うのだが、卒業式は身柄確保の5日前、即ち3月23日に済んでおり、既に認められた卒業が、時間を遡って取り消された事になるからだ。
4月2日付けの東京新聞(朝刊)に「誘拐事件で千葉大 規定ないのに卒業取り消し!?」という記事が載っており、今回の千葉大の決定に付いて賛否両論巻き起こっている様だ。
自分と同様、「既に卒業認定されているのに、遡って取り消す。」という事への違和感に加え、千葉大の学則には「卒業の認定は、学年又は学期の終わりに、当該学部の教授会の意見を聴いて、学長が行う。」と規定されており、「抑、“卒業認定後の扱い”に付いては触れられていないのだから、おかしな処分だ。」という声も。
(千葉大の)別の規定に「学年は、4月1日に始まり、翌年3月31日に終わる。」と在る事から、「3月31日迄は学年中なのだから、卒業の取り消しは問題無い。」というのが千葉大の理屈らしい。規定に無い「卒業留保」という措置を採る事で、Aの千葉大生としての身分は続き、今後の捜査の進展や司法判断を考慮した上で、(千葉大が設置した)「学生懲戒委員会」が放学等の処分を決めるそうだ。
「警察関係者が問題を起こした際、問題が発覚する前に当人が警察を辞めていた事にして、退職金を受け取れる様にする。」といった話を、良く見聞する。否、警察だけでは無く、一般企業でも在る事だ。「時間を遡り、事実を曲げる。」というのは、個人的にどうしても納得出来ない。
今回の千葉大の決定に対し、「当然の判断だ。」といった声も在る様で、卒業取り消しという決定がされなければされなかったで、「どうなっているんだ!」という声も上がるだろう。“リスク・ヘッジ”の観点からすれば、千葉大の決定は理解出来なくも無いが・・・。
其処で皆様にズバリ聞きます!「今回の千葉大の決定をどう思いますか?」
法律は素人ですが、「疑わしきは罰せず」、「事後法の禁止」は絶対でしょう。
まあ、容疑者の学歴から大学名を消したい気持ちはわかりますが・・・
心情的には判らなくも無いけれど、仰る様に「疑わしきは罰せず」及び「事後法の禁止」の観点から、卒業の取り消し&放学は無理だと思います。政治の世界では「法律を蔑ろにし、恣意的に解釈する傾向が強まっている。」だけに、余計に千葉大にはきちんと法に則った対応をして貰いたいです。
宗教における法とは、近代国家とその体制に及ぼして来た影響は大きいので、契約には、その履行をこそ、人的判断や弁護士の意欲と能力によって、刑の軽重が定まる流動的な法の闘争、よりも、重要視されるべきだと思います。
大学の専門知識の習得と、卒業認定の取り消し、というのは、どこをどう取っても対応するものはありません。大学側の面子とか、そういう事ではないと思いますし、ましてや制裁の意味合いを、公立学校が担うべきではありません。法曹の枠組みの中で、制裁も刑罰も決まっているものでしょう。
どんな問題にも色々な切り口が在ると思うのですが、大事なのは「感情よりも法律で定められた事柄を最優先して、問題の解決を図る。」という事だと思うのです。そういう意味で、「利害を調整する様な、事後対応が出来る様な、人間的な関係。」なんていうのは、正に感情を最優先させた方法でしょうし、仰る様に自重すべきでしょうね。
容疑者は卒業後だから大学を出た人です。そんな人に大学がお仕置きを加えるのは違和感を覚えます。
日本の場合、犯罪が発生し、容疑者は逮捕された段階で、マスコミに実名と顔が公表されます。こうなると、容疑者は社会的なお仕置きを受けるわけです。犯罪者扱いです。容疑者はあくまで容疑者であって、犯罪者と決まったわけではありません。
容疑者を犯罪者と断定して、お仕置きを決めるのは、裁判所であって、大学ではなく、国民でも、マスコミでもありません。現状はマスコミ、国民が容疑者にリンチを加えているのと変わりません。裁判ではっきり有罪と決まるまで、実名、顔写真の公表は行うべきではないと考えます。
近年、問題が発覚すると、一般国民が“集団リンチ”の如く、当事者をバッシングする風潮が在りますよね。何度か此処で書いている様に、国民の生殺与奪権を握っている政治家等、強権の在る人物達が起した問題で、且つ異性問題等、当事者の間で解決されれば良い話“で無ければ”、或る程度の非難は仕方無いと考えています。
今回の事件、“加害者”には強い怒りを覚えますが、でも、逮捕された人物は未だ“容疑者”の段階で在り、“加害者”と裁判によって確定した訳では無い。「疑わしきは罰せず。」という法の大原則を守らないのは、法治国家として未成熟と言えましょう。