もてなし が、持て成し であると、その語の成立を見るならば、動詞の語形変化があって、名詞形となった、とすることができる。転成名詞のことはその成立を、例えば、光と、光る、のように、いずれがもとになるか、分かちがたい語もあるので、いま、ここでは、もてなす から、もてなし の変化があったとみる。そうすると、もてなしをする という語法が、もてなす という語と、どういうちがいがあるのか、まして、美化する、または丁寧にも言うために、お を付けて、おもてなし というわけであるから、おもてなしをする というのは、もってまわった言いようである。笑い と、笑う で、笑いをします とは言いにくいのだが、お笑いをします となれば、お笑いします とは、まったく異なってくるが、お笑い そのものに、笑うことをあなたのこととしてその笑われる対象となって、その芸をすることになるから、笑い お笑い は、笑う対象とパフォーマンスの意味関係がある。これを例として、もてなす について考えると、どうなるか。
もてなす側ともてなされる側と、その捉え方で、おもてなしをする というのは、もてなすという行為を、もてなしと言うことによって、行為そのものを客体化してみることになり、もてなす側の立場を、おもてなしということで、その立場が逆転して、行為だけがそこに行われることになって、おもてなしをするのは主客転倒とすることによって行われるのである。
笑いはお笑いとなって、笑うことを客体化して笑われる対象となってみずから笑いを行うことである。お笑いします というのは、語法として言うことができても、よく考えると、謙譲して相手を笑うこと、それを見せるわけであるが、これはおかしな行為となる。それでは、お笑いをします ということになるのは、お笑いします の用法は、相手を笑うことになる、わたしがあなたを笑いますよ、という、意味になるので、その取り違いが起こることになることを避けるためには、お笑いをします と用いることになる。
おもてなしをします という表現は、おもてなしします とは、異なったパフォーマンスとなるが、謙譲の美徳である、おもてなしします、おもてなし致します、と言い続けることで、おもてなし の意味に、その文脈と場面が現れてしまう。主人でありながら、客人にへりくだってしまうと、それを続けることはむずかしい。おもてなしする のではなくて、おもてなしをする と言ってみても、おもてなし 自体に、その意味合いだけが強調されている。
もてなす側ともてなされる側と、その捉え方で、おもてなしをする というのは、もてなすという行為を、もてなしと言うことによって、行為そのものを客体化してみることになり、もてなす側の立場を、おもてなしということで、その立場が逆転して、行為だけがそこに行われることになって、おもてなしをするのは主客転倒とすることによって行われるのである。
笑いはお笑いとなって、笑うことを客体化して笑われる対象となってみずから笑いを行うことである。お笑いします というのは、語法として言うことができても、よく考えると、謙譲して相手を笑うこと、それを見せるわけであるが、これはおかしな行為となる。それでは、お笑いをします ということになるのは、お笑いします の用法は、相手を笑うことになる、わたしがあなたを笑いますよ、という、意味になるので、その取り違いが起こることになることを避けるためには、お笑いをします と用いることになる。
おもてなしをします という表現は、おもてなしします とは、異なったパフォーマンスとなるが、謙譲の美徳である、おもてなしします、おもてなし致します、と言い続けることで、おもてなし の意味に、その文脈と場面が現れてしまう。主人でありながら、客人にへりくだってしまうと、それを続けることはむずかしい。おもてなしする のではなくて、おもてなしをする と言ってみても、おもてなし 自体に、その意味合いだけが強調されている。