言という。
こと である。
こと は事である。
ことわざ 言事 と理解された。
言と事と、言葉と事件とする。
諸国に国史をおいて、言事を記し四方 よも の志 ふみ を達 いた せり、日本書紀 履中訓に見える。
そして、ことわざについて、こととわざと、やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。
世中にある人、ことわざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり、古今集の仮名序にある。
日本語、日本文芸について、このように議論するものは、古代には、ほかになく、言の葉の道としてここから始まる。
ことば
2013-10-28 14:25:06 | 語り
万葉集の774番歌、言羽はことばと解釈されている。
集中にある歌、世の中の人の辞と思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日多み 2888番に辞と見えて、それをことばと読み下す。
歴史書に同じく、其辞気慷慨 そノことばきハゲシ 神代記下、と見える。
あるいは、仏にも神にも申し上ぐる事の詞は此の国の本の詞に逐偽りて、唐の詞を仮らず書き記す 続後紀嘉祥二年、と見えて、詞をことばと訓じている。
時代別国語大辞典、上代篇による。
ことば辞・詞の項の前に、ことのへ の項があり、言の葉の東国形であるとして、うつせみの八十許登能敝は繁くとも争ひかねて吾を言なすな 3456番がある。
また、この辞典の考には、松影の浅茅が上の白雪を消たずて置かむ言者かもなき 1654番について、言者とあるのを、ことばと訓み、呪言であるかという説を載せている。301ページ。
2013-10-28 15:53:12 | 日本語百科
辞書は引くためにある。字引といったゆえんである。その字は、たまたま発音が同じになった日本語であるが、事典、辞典、字典となれば、この字を文字と思う向きが多い。それは文字でよいのであるが、実は、文字はことばということである。文はいろいろな言葉のあらわれで、字がことばであって、それを作り出す、字そのものがことばなのである。字引は、したがって、言葉を引くためのものである。字通の説明で、字を見ると、次のようである。
>宀は家廟。家廟に子の出生を報告する儀礼で、これによって養育・字養のことを定める。またそのとき字(あざな)(幼名)をつける。いわゆる小字である。
さらに、次の意味を解説する。
>あざなをつけることから、文字の意となる。文は文身で、やはり、もと通過儀礼の一である。そこで文字となる。名づけ、その儀礼で文様をつけることであった。
日本語の文字はその名辞を漢語から学びいれたことによって、ことばとなった。
日本国語大辞典より、文字の項。
(文字で書き表わすところから)ことば。文言(もんごん)。文辞。文句。用語。また、助詞・助動詞に対して自立語、なかんずく体言をさしていう場合。
*枕〔10C終〕一九五・ふと心おとりとかするものは「ただもじ一つにあやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらん」
*源氏〔1001~14頃〕花宴「ことわりや。聞えたがへたるもじかなとて」
文字辞書は引くためにある。字引といったゆえんである。その字は、たまたま発音が同じになった日本語であるが、事典、辞典、字典となれば、この字を文字と思う向きが多い。それは文字でよいのである...