10124 くんじゅとなるもしょうじゅとなるなかれ、とは、君子と小人の対比である。くんしのじゅとなれしょうじんのじゅとなることなかれ、と、検索して、君子儒と小人儒といずれになるかを問うもの、これを解して、君子と小人のことを説明する。読み下し文は子(し)子夏(しか)謂(い)いて曰(のたま)わく、女(なんじ)君子(くんし)の儒(じゅ)と為(な)れ、小人(しょうじん)の儒(じゅ)と為(な)る無(な)かれ。
雑誌WILLの今月号、巻頭のコラム、朝四暮三 加地伸行氏に一文があった。
君子儒は教養人、小人儒は知識人とする。
つい最近ににぎわした失職県知事の話題を氏は書く。
そこで、君子になるか、小人のことか、と、儒者の果てを探る。
儒学、儒教、儒者にあって儒家の君子とはなにかを思い馳せる。
冒頭の論語の引用を、いきなりのこととて恐縮して、インターネットサイトによるとお断りして、かれこれYouTubeの番組にあるらしい。
あるは、[論語素読会]苟日新、日日新、又日新 https://arukanatikait.com/profile の方による解釈では、女君子の儒と為れ、小人の儒と為る無かれ|「論語」雍也第六11
>孔先生が子夏におっしゃった、お前は志を持った有徳の学者を目指しなさい。単に知識だけの学者にはなるなと。
「論語」参考文献|論語、素読会
>当ブログでは、『全訳漢辞海 第四版』(三省堂書店)から筆者が思う最適解を選ぶようにしています。その際、伊與田覺『現代訳 仮名論語』(論語普及会)と、吉田賢抗『新釈漢文大系 論語』(明治書院)の読み下し文を参考にしています
付け加えるのではないが、わたしに知識人となると連想は実存の主義主張を唱える人あたりで1960年代のことか、1968年か。
ついて教養人となると大学に進んで教養部が存在したころの環境で教養主義となる
https://toyokeizai.net/articles/-/682270?page=2
日本で「教養主義」が失われた2つの納得する訳
堀内 勉 : 多摩大学大学院教授
>西洋の歴史に目を転じると、「教養」に相当するギリシア語は「パイデイア」(paideia)で、「子供(pais)が訓練によって身につけたもの」という意味です。
これは教育そのものを意味するだけでなく、教育の結果である「教養」「文化」「文明」「伝統」などを含む幅広い概念です。
ちなみに、「教養」を英語で表現するのは難しいですが、「カルチャー」(culture)や「カルティベーション」(cultivation)という言葉になり、これは「心を耕すこと」を意味します。
また、ドイツ語では「ビルドゥング 」(Bildung)と表現され、これは「形成すること」を意味します。
古代ギリシアの教育は、この「パイデイア」という自由人の教育と、「テクネー」(techne)という職人や奴隷の教育に分かれていました。
「パイデイア」 は、人間として普遍的な知識を身につけることで精神を深め、人生を豊かにすることを目的とした自由人の教育でした。
これに対して、ギリシア語のテクネーには、絵画、彫刻などの諸芸術をはじめ、医学、建築など人間の制作活動全般が広く包含されていました。
このテクネーは、ラテン語の「アルス」(ars)、英語の「アート」(art)に対応します。
英語の「テクニック」(technique)は実践的・具体的なものですが、「アート」は創造的な表現活動を広く含んだ総称です。