ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の藤田幽谷のゆかり

2018-04-28 21:23:25 | 水戸

生誕の地(宮町3-4)
 那珂郡飯田村(現・那珂市)から水戸に出た与右衛門が、下谷(現・水戸市宮町)の坂道に古着屋を開業したそうです。幽谷は、そこで安永3年(1774)に与右衛門の次男として生まれたそうです。天明4年(1784)11歳のときに立原翠軒(たちはらすいけん)の門に入り、その推薦で彰考館に入ったそうです。生まれた地の急坂地形から幽谷という号をつけたそうです。

 

屋敷跡(梅香1-1-8)
 文化7年(1807)には34歳で彰考館総裁となり、兼務で郡奉行(こおりぶぎょう)にもなって、思想家としてばかりでなく、民政家としても活動したそうです。また、青蘭舎(せいらんしゃ)という私塾を開き、若者の教育にあたったそうです。この地で、子供の東湖が生まれました。

 

彰考館跡(水戸二中前 三の丸2-6-8)
 停滞していた大日本史編纂を軌道に乗せた立原翠軒と、大日本史の編集方針をめぐって対立し、享和3年(1803)に翠軒が身を引くことにより、対立は解消したそうです。その後、幽谷が総裁になったそうです。幕末の水戸藩内紛の一つのきっかけでもあったようです。

 

浴徳泉碑(逆川緑地 笠原町)
 徳川光圀が完成させた笠原水道を記念して建てられた紀念碑で、享和2-3年(1802-3)の大修理に関係した人たちの発案だったそうです。文章は幽谷で、浴徳泉記の書は斉昭だそうです。碑には、工事に26,000人がたずさわり、550余両がかかった、笠原の木を伐採して田を作りたいという願いに光圀が水道への害を考えて許さなかったなどの有名なことが記されているそうです。

 

墓(常磐共有墓地 松本町13-34)
 文政7年(1824)には、家禄200石の中士の身分に昇格して、 文政9年(1826)に、59歳で没したそうです。墓は常磐共有墓地にあります。

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