ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の臼(2)

2021-10-31 18:15:02 | 水戸

木挽臼(こびきうす 埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1)
 河和田城跡で見つかった、16世紀後半から17世紀前半につくられた、木の臼だそうです。水漬けの状態で発見されたそうです。石臼のような使い方だったのでしょうが、効率は悪かったでしょう。臼のまわりに紐を巻いて回す絵がそえられていました。

 

木臼(大塚農民館 大塚町1223-2)
 餅はハレの日の大事な食べ物でしたから、農家の多くは臼を持っていたことでしょう。年中行事を見ていると、正月ばかりでなく、節目節目の行事には餅をついているようです。

 

茶臼(埋蔵文化財センター 塩崎町1064-1)
 水戸城から出土した、普通の石臼より小さな、近世のお茶をひく石臼だそうです。お茶を挽くという言葉は、暇な時にお茶を挽くことから、暇なことをいうようですが、そうした言葉ができるほど、抹茶はよく飲まれたのでしょうか。

 

石臼(見和1丁目桜台児童遊園 見和1-356-46)
 公園内にあるごきんじょという石造彫刻群の中に、石臼が置かれています。石臼は、金の採掘で、金を含む石を粉砕する作業にも使われたようですが、佐竹氏の時代にはたくさんあったことでしょう。

 

飛び石(茨城県立歴史館 緑町2-1-15)
 石臼を飛び石に使うのは、茶室でよくあるようです。茶臼では小さすぎてだめでしょうが。歴史館にある無庵という茶室にありました。

水戸の臼(1)

 

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水戸のレトロ(2)

2021-10-30 20:13:29 | 水戸

 レトロというのは懐古趣味の意味だそうです。現在、かつてを懐古をする中高年の人が、その対象とする時代は、戦後の昭和ぐらいが一番ぴったりしているのでしょうか。街で見た、そのあたりの物事を集めてみました。

 

学校給食(茨城県立歴史館内旧水海道小学校本館 緑町2-1-15)
 アルマイトの食器に、コッペパン、牛乳と、和風っぽい中華・洋食のおかずという給食のスタイルは、昭和30年代あたりから普通になったようです。給食が、日本人の伝統の味と舌の力をこわしてしまったという根強い主張もあるようです。

 

D51(千波公園 36°22'10.6"N 140°27'17.0"Eあたり)
 蒸気機関車もレトロの代表でしょう。トンネルを越すと鼻の中が黒くなったり、風向きによっては煙が車内に入ってきて往生したりといった経験をした人も少なくなってきていることでしょう。この機関車を保存する会もできているようです。

 

だるまストーブ(エバタ工機 元石川町204-8)
 エバタ工機の経営者は古いものがお好きなようで、会社のまわりにはたくさんレトロなものが集められていて、ミニ博物館の様相を呈しています。だるまストーブは、学校にはクラスごとにあって、石炭を運ぶ当番もあったような記憶があります。

 

昭和のヒーロー(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 少年アトム、鉄人28号、ゴジラ、どれも男の子の心をつかんだようですが、その頃の女の子のヒーローは何だったのかなと考えると、私が男だからなのか、浮かんできません。少女という漫画雑誌はあったような気がするのですが。

 

骨董市(吉田神社 宮内町3193-2)
 去年あたりから始まったようですが、毎月第3土曜日に開かれる吉田神社の骨董市です。レトロなラジオのいろいろも並んでいました。

 

泉町仲通り(看板アーチのあるあたり 泉町36°22'47.9"N 140°27'45.2"E)
 飲み屋街はレトロ感を楽しめる一番の場所のようです。この通りは、ボランティア(持参する絵と米を交換するそうです)で有名な酔族館を経営する忠さんという人を中心に、よくまとまった特色ある街のようです。泉町、大工町にはこの泉町仲通りのほかにも、旦那横丁、松の木通りといった飲み屋通りもあるようです。少しでも早くコロナから復活してにぎやかになってください。

水戸のレトロ(1)

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水戸の板戸

2021-10-29 20:08:56 | 水戸

  好文亭の板戸は以前にご紹介しましたが、今回はそれ以外で見た板戸です。ふすまが正式な戸で、板戸は略式といった感じがあるようです。板戸は、使われる板の木目の美しさを強調しようとしているようです。ここで板戸は、主に室内のふすま代わりにたてられたものをイメージしています。

 

弘道館(三の丸1-6-29)
 弘道館には何種類もの板戸があります。好文亭と同様に、節約や質実剛健といった意味もあるのでしょうか、板戸が目に付きます。この板戸は、枠部分が漆塗りになっていて、重々しい感じをだしているようです。板戸の穴は、明治1年に行われた、天狗党(改革派)と諸生党(保守派)の間で行われた最後の大規模な戦い、弘道館戦争でできた弾痕のようです。

 

神応寺(元山町1-2-64)
 木目の縦横を楽しめるように板を貼っている、見ごたえのある板戸です。これは、本堂正面の屋外に面した板戸です。

 

沼津ケ沢不動院(東原1-2-20)
 縦線の木目を強調した、杉の板を使ったらしい、これもきれいな板戸です。写真手前は、子供神輿なのでしょう。

 

中崎家住宅(鯉淵町2897)
 そう古い板戸ではないかしれませんが、竃(かまど)からでる煙のすすが染み込んだ黒さが、いかにも古民家らしさを強調しています。写真中央奥にある仏壇部分は、その黒さから見て板戸よりだいぶ古そうな感じがします。

 

善重寺(酒門町2096-2)
 たぶんふだんは閉じているのでしょう、本尊(写真右方)前に建てられた新しい板戸です。本尊を守るものとして、襖より丈夫な板戸を選んだのでしょうか。これも焼香の煙でだんだん本堂の雰囲気になじんでいくのでしょう。

水戸・好文亭の板戸
水戸の扉(7)

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水戸の曲線(8)

2021-10-28 19:57:59 | 水戸

水戸城角櫓(すみやぐら 三の丸2-5-18)
 屋根の軒下に突き出る垂木(たるき)を漆喰(しっくい)でおおったために、きれいな曲線ができています。この角櫓は、火から建物を守るために、漆喰と瓦で全体をかためているようです。普通は木で作られる懸魚(げぎょ)も漆喰製のようです。

 

イサムノグチデザインの遊具彫刻(南町自由広場 南町6)
 街の中で大変目立つ遊具です。生命感を漂わせる赤い曲線は南町自由広場の顔になるのでしょう。どうせなら、もう少し外の顔があってもよいような気もします。

 

まちなかリビング作戦(西洋倶楽部 南町2-3-32)
 この事業のロゴマークは、まちなかのMをデザイン化したようです。快い曲線になっているようです。この事業は10月31日まで行われるようです。

 

住吉町(36°20'20.9"N 140°28'34.5"Eあたり)
 道路両側にひかれていて中央にへこませた曲線は、「狭窄(きょうさく)」というようですが、自動車が速度を落とすよう視覚的に訴えるためのもののようです。ここでは2つ連続して描かれています。両側に建物のない所から、建物がある所に変わるあたりです。

 

ネコノヒゲ(水戸市植物公園 小吹町504)
 インドからマレー半島あたりが原産のシソ科植物だそうです。葉がカリウムを多く含み、利尿作用などがあることから薬用植物として入ってきたそうです。花のオシベ、メシベの形から名前がついたようですが、よくぞ付けたというくらいのぴったり感があります。いい曲がり具合です。

水戸の曲線(7)

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水戸の版木

2021-10-27 20:54:40 | 水戸

 活字が発達しなかった日本では、出版は版木が使われたようです。たくさんの漢字活字を用意して拾うより、手の器用な日本人には、彫った方が早かったのでしょうか。文字をつないで書く草書体が一般的だったことも理由の一つなのでしょう。嘉永4年(1851)に出版された本紀・列伝を記した大日本史の版木は、昭和20年の空襲でほとんど焼けてしまい、今残っているのは2枚だけだそうです。

 

弘道館記(弘道館 三の丸1-6-29)
 徳川斉昭の名前で藤田東湖が描いた弘道館記は、弘道館が出版して広く読まれたようです。弘道館記碑は、弘道館北側にある八卦堂の中にあります。その拓本は弘道館本庁の床の間に軸装されて飾られています。写真の下方にあるのは、弘道館記と書いた外題(げだい 表紙に貼る書の題名)のようです。

 

弘道館学則(弘道館 三の丸1-6-29)
 「一、凡(およ)そ学館に出入する者、当(まさ)に親製記文(斉昭の弘道館記)を熟読し、審(つまびら)かに深意の在(あ)る所を知るべし。神道、聖学(儒学)の其の致(むね)を一にする、忠孝の其の本を二ツにせざる、文武岐(わか)つべからざる、学問事業の其の効を殊(こと)にすべからざる、皆宜(よろ)しく記文の意を奉承し、黽勉服膺(びんべんふくよう 励んで忘れずに行う)すべし。」と第1条にあります。写真下方に学則の文字が見えます。

 

喪祭式(弘道館 三の丸1-6-29)
 斉昭は、神葬祭を奨励し、仏教式を排して、神道式による簡素化を図ったそうです。これは、明治2年に弘道館蔵版として板行されたものの版木だそうです。今の弘道館東側の弘道館公園のあたりで弘道館出版事業は行われたようです。「弘道館施設の現在との比較」の中で11「文館」中の下あたりのようです。

 

水戸拓(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 幕末水戸藩で咸章堂岩田健文が始めた拓本技術や出版事業が北沢家に継承されて、水戸の名物になったそうです。写真は水戸拓の版木で、彫りが逆になっていないので、上に紙を置いてたたいて押して、墨をぬったのでしょう。火災で焼け残った版木だそうです。

 

秋葉神社(城東5-12)
 坂田暁風が書いた写真の新聞記事には、「于時(ときに)天保七丙申(ひのえさる)(1787)六月吉日再版」と裏書きされた、秋葉大権現神体の版木が神社内にあると書かれています。印刷した札を氏子に配ったのでしょうか。以前境内に展示されていた新聞の写真です。

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