ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の階段(8)

2023-02-28 20:07:10 | 水戸

 水戸の段差を実感する階段のいくつかです。水戸は台地と低地とで形づくられているようですが、その標高差はだいたい20mくらいのようです。その両者を結ぶでたくさんの急な階段や坂道があります。身近にたくさんの階段などがあることは、水戸の大きな特徴の一つなのでしょう。健康のためには絶好の環境なのかもしれません。

 

備前町(階段上 下は紀州堀(梅香2-4))
 和歌山(紀州)から一気に岡山(備前)に移動できる階段です。この坂を登る人はいるのかなと思うくらい急な階段で、コンクリートの丸太を35本並べています。地元の要望があってつくったのでしょうか。

 

酒門町(国道6号線側)
 酒門町の台地と国道6号線がある低地を結ぶ急な階段です。これなどは運動クラブの特訓に向いているような…。

 

青柳団地(県道349号線をつなぐ階段)
 青柳団地から県道349号線にのぼる、下の方が屈折した階段です。これは80段ありました。

 

水戸市森林公園(木葉下町588-1)
 水戸市森林公園の低湿地の部分には、小川やせせらぎの道などの散策路、水芭蕉などの植物があり、20-30m高い台地上には恐竜広場やチーズのシェーブル館などがあります。この2つを結んでいるのは、長いローラーすべり台と、階段のようです。公園北方には、低地から台地のばくたん山(台地の一部をいうようです)へのぼる丸木を並べた階段があります。数えて見ましたが107段くらいありました。なかなかのぼりがいのある階段です。

 

木葉下(あぼっけ 晡時臥山(朝房山(あさぼうやま))眺望台(木葉下町453-20)からおりる階段)
 最近、晡時臥(くれふし)山展望台ができたようで、山にまつわる伝説を記した碑などが並んでいます。写真は、そこから工場団地がある低地へ降りる階段です。あまりつかわれないからなのでしょうか、そうとう傷んできてきます。

水戸の階段(7)

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水戸の寺社への奉納物(3)

2023-02-27 20:49:10 | 水戸

 寺社は信仰する人達によって、いろいろな物が奉納されることによって支えられているようです。寺社の新築、修繕などの際や、信徒の喜寿や叙勲などのときに奉納は行われているようです。そうした物のいくつかです。

 

手水鉢(水雷稲荷 泉町6°22'48.7"N 140°27'48.3"Eあたり)
 明治28年に奉納された手水鉢です。このあたりは、明治時代に、金町の富商・富田彦市が2万坪を買収して開発した地区だそうで、水雷稲荷もその際に蓮池町から移されたもののようです。「大吉屋支店内 都、志め治、寿〻子、はる子」と彫られています。料亭の芸妓が連名で奉納したように見えます。きっと、きっぷのいい人たちだったのでしょう。

 

天水受け(浄安寺 緑町1-13-22)
 昭和31年に個人が奉納した天水受けのようです。60年もたつと、古色があらわれてくるようです。

 

賽銭箱(仏性寺 栗崎町1984)
 これも個人が、昭和28年に奉納したようです。正面には、奉納の文字と、四つ割り菱の紋が焼きゴテで、涌石山大日院仏性寺の文字が筆で書きこまれています。

 

石畳(湯殿山大権現 小吹町36.350021, 140.430587あたり)
 石畳の両側に、昭和13年に拝殿を、平成7年には受勲の記念に石畳を奉納したように書かれています。平成7年には、手水鉢も、同じ個人が奉納しているようです。もしかすると大きな屋敷神なのかも知れません。

 

松(楊林寺 三湯町45)
 平成24年に本堂が新築となって、その際に本堂建設委員会が奉納した松のようです。順調に育っているようです。楊林寺の本堂屋根には、水戸では珍しい、鴟尾(しび 鬼瓦のところに置かれる屋根飾りの一種)が乗っています。

水戸の寺社への奉納物(2)

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水戸の方言(18)

2023-02-26 20:43:14 | 水戸

 今回は名詞です。聞いてもわからない言葉はたくさんあるようです。

 

あいしょーけん
 じゃんけん。「けん」は「拳」のような気がしますが、「あいしょー」がわかりません。

 

いじこ
 あかんぼを入れる籠。全国方言辞典では、仙台、常陸、青森、宮城で使われるとしています。「えじこ」、「つぐら」という地区もあるようです。以前は田の仕事などで忙しい時に、動けないように赤ん坊を藁籠に入れたそうです。あかんぼにとっては、足などにも、余り好ましいものではなかったようです。

 

おかんじんめ
 乞食。全国方言辞典では、「おかんじん」、「くゎんじん(かんじん)」という地区もあると書いています。「かんじん」は、勧進で、寺社の修繕費などを募ることをいうですが、そうしたことを名目に金をもらう僧やその姿をした人が多くいたことからできた言葉なのでしょう。

 

しぶかし
 あばた。疱瘡が治った後に残ったあとのことだそうです。ほかの地区では「じゃんか」とうもいうようです。

 

たつ
 性質。たちが悪いなどという「たち」は人の性質をいうようなので、その変化なのでしょう。

 

ちく
 うそ。全国方言辞典では、常陸下野(物類称呼)、館林、栃木、群馬県邑楽郡、埼玉県北葛飾郡、千葉県北部、茨城県那珂郡となっています。広辞苑には、物類称呼には、常陸下野辺で「ちくらく」ともいうとあります。

 

てほらく
 冗談。全国方言辞典では「でほーらく」として、ほら、うそ、でたらめとあり、福島、群馬県勢多郡、埼玉県秩父郡、茨城県真壁郡としています。「ほら」がもとになってできた言葉なのでしょうか。

 

どっけず
 びり。全国方言辞典では、「どっけ」は最後、びりで、福島県早良郡、「どっけつ」も意味は同じで、福井、山口県大島とあります。尾骶骨を「とっけつ」という地区もあるようですが、同じ流れの言葉のように見えます。今でも言う、「どんけつ」などという言葉も同様なのでしょうか。

 

にんこ
 おにぎり。茨城町で「おにんこ」といもうそうですので、たぶん、にぎるという言葉の変形の「にん」に、言葉の後につく「びんこ」「めとっこ」などというような、「こ」がついたのでしょう。

 

ぶんだし
 はじめ。全国方言辞典に「ぶんだす」が、出かける、出発するとありますので、そうした言葉の仲間なのでしょう。

水戸の方言(17)

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水戸のおばけ系(3)

2023-02-25 20:24:06 | 水戸

お化けエノキ
 森戸町の原の中にあって、じゃまなので切ろうとすると、その人に不幸なことがあるといわれ、そのままになっているエノキだそうです。「お化けエノキ」とか、「幽霊エノキ」などといわれているそうです。何となく、もう少し違う言い伝えられた話があるような気がしますが、木自体は、のびのびといい形に育っているようです。根元には小さな石祠があります。

 

老馬
 徳川頼房が秘蔵した異国という名前の馬が、年を老い、民家に売り下げられて、荷物を運ぶ駄馬として使われていたそうです。あるとき、馬主が、その馬に向かってたわむれに、「お前は殿様の馬なのに、このように民家に来て、多くの骨折りをするものよ」といったことをいうと、馬は膝を折って、涙を流したかと思うと、舌をかみ切って死んでしまったそうです。写真は、水戸市立博物館で開催された徳川頼房展で見た頼房の書状にある花押です。

 

老猫
 維新前のこと、下市の横竹隈あたりに絶世の美人が毎晩現れたそうです。ある武士が、これはきっと狐狸のしわざだろうと思い、ある夜それを切り倒したそうです。翌日明るくなってから見ると、それは大きな年を経た猫だったそうです。写真は、竹隈市民センター(柳町2-5-8)にある旧町名・横竹隈の石樋です

 

幽霊
 青物町にあった芸妓置屋にいた芸妓が病死し、その後、毎夜幽霊となってその家に出るという話が町内に広がったそうです。置屋の主人が困って、そのことを彫金家の北川北仙に話したそうです。するとその後、幽霊を見ようと夜に集まって来る若者たちのほうへ、白い着物で、三角切れをつけて「オヒイドロ/\…」という幽霊が向かってきたそうです。若者たちがよくみると、それは北仙であることが分かったそうです。それ以来、お化けの話は消えてしまったそうです。

 

ヒョウタンランタン
 ひょうたんランプ・響がつくったハロウィンのヒョウタン製カボチャランタンが、平成1年に水戸芸術館前庭で行われた、あおぞらクラフト市たくさんに並んでいました。

水戸のおばけ系(2)

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水戸の酒の話(20)

2023-02-24 19:49:40 | 水戸

 下は、水戸藩士として赤沼で生まれ、歩行困難な病気のために出仕せずに、銀河寺の僧・仏兮に師事して俳諧にうちこんだ、晩年幻窓湖中と号した岡野重成の酒句です。岡野は、3世湖中を受け継ぎ、芭蕉を慕ってその研究や、自身の句作を、離れに作った四壁堂ではげみ、四壁堂湖中とも名のったそうです。天保2年(1831)に56歳で死去したそうです。
鶯(うぐいす)や 人目を偸(ぬす)む 小酒盛
水鶏啼(くいななく) 拍子にへ(減)るや 壺の酒

 

 文政7年(1824)に現・北茨城市の大津浜にイギリス捕鯨船が上陸したため、会沢正志斎が通訳として出向いたことが、尊王攘夷を全国に広めた「新論」のきっかけになったようです。こうなる前から、異国船と地元漁師との交流はかなりあったようで、漁師が異国船で飲食の接待を受けたり、文通までしていたりしたそうです。交流の際には、当然酒もだされたようですが、そのときに漁師が飲んだのはラム酒だっただろうとのことです。写真は、弘道館にある会沢正志斎像です。

 

 天保12年(1841)に仮開館した弘道館では、毎年1回大試という、選抜された者に対する文武の試験がおこなわれたそうです。試験終了後には、藩主が学校御殿に臨んで受験生一同を慰労をしたそうです。そしてそのあとに、家老・用達以下関係者一同と受験生には、酒肴を賜ることになっていたそうです。

 

 瓢兮歌(ひょうやのうた ひょうけいか)は、藤田東湖が、弘化1年(1844)に桜任蔵から贈られた瓢箪を、「愛玩(あいがん)置かず、瓢兮歌を賦(ふ)す」と題して詠んだ歌だそうです。その最終章では、「瓢兮々々吾汝(われ なんじ)を愛す 汝能(よ)く酒を愛して天に愧(は)ぢず 消息盈虚(えいきょ 栄枯盛衰)時と与(とも)に行(おこなは)る 酒あれば危座(きざ 正座)し酒なければ顛(ねころ)ぶ 汝危座する時吾れ未(いま)だ酔はず 汝まさに顛ばんとする時吾眠らんと欲す 一酔一眠吾が事足る 世上の窮通何処の辺ぞ(世間の困窮とか栄達というものはどのあたりにあるのだろうか、私には関係のないことだ)」と詠われています。写真は大洗町にある藤田東湖像です。

 

 この1月に行われた、ドットエスティ B.LEAGUE ALL- STAR GAME 2023 IN MITOの共催行事として、水戸駅北口のペデストリアンデッキで、地酒で新酒まつり in 水戸が行われていました。菰樽(こもだる)の並んでいるのが印象的でした。

水戸の酒の話(19)

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