ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸のキク(2)

2021-11-30 09:14:26 | 水戸

  今回は本物でない菊のいろいろです。

 

灯籠竿(東照宮 宮町2-5-13)
 徳川頼房は、東照宮を建てたそうですが、その30年後の慶安4年(1651年)、父家康三十三回忌に、この灯籠を奉納したそうです。竿(さお)の部分に、垣根をこえて咲き乱れる菊が描かれています。

 

襖絵(好文亭菊の間 常磐町1-3-3)
 好文亭の順路始めにある板敷きの部屋です。描いたのは、東京芸術大学名誉教授、横山大観記念館理事長だった田中青坪(せいひょう)だそうです。

 

本殿向拝装飾(愛宕神社 愛宕町10-5)
 本殿の向拝を支える柱の上に、横に渡された桁(けた)の端についた装飾です。桁の木口を風雨から守る意味もあるのでしょう。下に見えるのは、ボタン(たぶん)が彫刻された手挟み(たばさみ)です。

 

軒丸瓦(安国寺 大足町 1184-1)
 山門に接続した塀の屋根にある軒丸瓦です。伝統模様で菊水というそうです。家紋などにもあるようです。

 

和菓子(木村屋本店 南町1-2-21)
 和菓子には何種類も菊を形どったものがあるようですが、これもその一つで、はさみ菊というようです。文字通りはさみで切って花びらをつくるようで、なかなか大変な作業のようです。写真は、以前ウィンドウに飾られていたはさみ菊です。

水戸のキク(1)

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ぶらっと歩きの風景in水戸(87)

2021-11-29 19:36:53 | 水戸

刈り田焼き(加倉井町)
 一帯で刈り田に火が入っていました。晩秋の風物詩なのでしょうが、最近はむしろ大気や土壌によくない問題あることになってきているようです。

 

常照寺池の夕景(酒門町)
 街のすぐ近くにこんな夕暮れの風景がありました。左側が常照寺のある天神山で、右側が善重寺などのある高台です。

 

みとちゃん朝市とこども食堂(薫風 梅み月 見和1-311)
 みとちゃん朝市のバルーンアーチが使われていました。第4日曜の7時半から毎月開催しているようです。同時にこども食堂も開かれているようで、常陸牛カレーが子どもには無料で配られているようでした。

 

ロケ地カード(水戸市双葉台市民センター 双葉台2-1-5)
 水戸で4枚目のロケ地カードが発行されていました。オハナコートでは映画「紙の月」や、日本テレビ「ニッポンノワール」、テレビ朝日「仮面ライダーゼロワン」、NHKドラマ「4号警備」などが撮影されたそうです。水戸市双葉台市民センターでもらえます。

 

部分月食
 これを写したカメラの時計は18:25になっていて、食の最大時刻は過ぎていますので、元に戻りつつあるころのようです。

ぶらっと歩きの風景in水戸(86)

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水戸の親子

2021-11-28 17:50:36 | 水戸

 ぶらっと歩きで見かけた親子のいろいろです。

 

ハクチョウとカルガモの親子(千波公園 千波町)
 2種類の鳥の親子が一緒にいました。双方とも相手にまるで興味を示さなくてそれぞれに動き回っていて、面白いなと思いました。

 

ニワトリ親子の絵馬(銭谷稲生神社 浜田町150)
 奉納された大正9年5月は申(さる)年なので、その年の干支を描いたのではなさそうです。奉納者は女性のようなので、子どもを授かることを願ったのでしょうか。

 

石彫の犬(見和1丁目桜台児童遊園 36°22'47.0"N 140°26'37.4"Eあたり)
 この公園にはたくさんの石彫がありますが、そのうちの一つです。ほのぼのとした感じの像です。川井一彦作のようです。

 

親子地蔵(泉神社 宮町3-1-15)
 昭和20年8月の空襲で、この地にあった防空壕に避難していた母子3家族の14人が亡くなったそうです。その供養のために翌年この地蔵がつくられたそうです。

 

親子梅(常磐町 36°22'17.7"N 140°27'14.8"Eあたり)
 徳川斉昭・慶喜親子像が建立されたことの記念に、その脇に植えられた梅の木だそうです。レッコウバイ(烈公(=斉昭)梅)なのでしょうか。

 

徳川斉昭公・七郎麿呂(慶喜公)像(水戸市役所 中央1-4-1)
 上の親子梅の地にある大型の親子像の、たぶんもとになった像なのでしょう。小さな親子像が市役所に置かれていました。同じものを弘道館でも見ました。作者は能島征二だそうです。

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水戸のもみじ(3)

2021-11-27 20:24:22 | 水戸

 ぼつぼつもみじも終盤になってきたようですが、そのいくつかを見てきました。

 

報仏寺(河和田町887)
 山門から本堂に向かう参道は、イチョウの黄葉と、カエデの紅葉とに敷きつめられています。子どもが「わーきれい」といいながら落葉をすくって、散らしていました。地元では有名な落葉狩りの場所のようです。写真中央奥は本堂です。

 

水戸市植物公園(小吹町504)
 植物公園にはラクウショウ(写真右半分)がたくさん植えられていて、ちょうど見ごろのもみじになっていました。ほかにも、ハナノキ(写真右の中央)などの赤系のもみじもあります。

 

百樹園(元吉田町2618-1)
 たくさんの高木に混じってもみじのきれいな木々もたくさんあるようです。中央にある四阿(あずまや)付近にはそれが多いようです。

 

千波公園せせらぎ広場(千波町627-9)
 小川に沿って、紅葉樹がたくさん植えられているようです。落葉を踏む音を楽しみむことができます。

 

千波湖南岸(千波湖北岸から)
 対岸の北側から見ると、イチョウの黄葉がきれいでした。

水戸のもみじ(2)

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水戸を書いた文献(2)

2021-11-26 20:21:50 | 水戸

 小説に描かれてた水戸のいくつかです。

「商機」 長塚節
 彼は水戸の或る通りへ近く洋品店を開く計画を成就した。其傍(そのかたわら)酒と醤油を商(あきな)ふことに極(き)めた。彼は今廿四(24)歳の青年である。暫(しばら)く奉公をして年季の明けたのは廿二の暮であつた。それからは年の若いのと運が向かないのとで家へ帰つた儘(まま)そここゝと彷徨(さまよ)つて別に目に立つことも無くて過ぎた。然(しか)し二年間の境遇は悲惨であつた。境遇から彼は年齢よりもふけて見えた。
(小編です。写生文としてはさすがだと思いますが、あまり商売というものを知らない人が書いたという感じがしました。明治時代の作品のようです。)

 

「夜明け前」 島崎藤村
 もともと水戸の御隠居(徳川斉昭)はそう頑(かたくな)な人ではない。尊王攘夷という言葉は御隠居自身の筆に成る水戸弘道館の碑文から来ているくらいで、最初のうちこそ御隠居も外国に対しては、なんでも一つ撃ち懲らせ(うちこらせ)という方にばかり志を向けていたらしいが、だんだん岩瀬肥後(忠震 ただなり)の説を聞いて大いに悟られるところがあった。御隠居はもとより英明な生まれつきの人だから、今日の外国は古(いにしえ)の夷狄(いてき)ではないという彼の言葉に耳を傾けて、無謀の戦いはいたずらにこの国を害するに過ぎないことを回顧するようになった。
(水戸のご隠居という言葉がよくでてきます。この部分を見ても、徳川斉昭に対して親近的な見方をしているようです。昭和4年の出版だそうです。)

 

「悉皆屋幸吉」 船橋聖一
 水戸の上市のはずれ高等学校の校舎をすぐ向うに見る丘の上の畑に、二三軒新しい家が並んでいる、その一軒を市五郎(幸吉の主人)は借りることにした。八畳に長四畳に、玄関、台所という間取りで、壁はまだあら壁のままであった。-
 ある日、市五郎は組合の寄合の帰りに、康吉を、中川という鰻屋に誘った。いきのいい、身のあつい蒲焼が名物で、東京人の口に合うものは、ここ一軒だった。裏に小意気な座敷があって、大工町の箱(芸妓のこと)も入った。市五郎は座敷に上ると、白鷹(酒の銘柄)と中串を命じて、自分が床の間のほうへ坐った。
(大工町花街で遊んだ学生時代の体験が生かされているそうです。昭和20年に出版されたそうです。)

 

「日本沈没」   小松左京
 茨城県水戸市木葉下(あほつけ)-水戸市西北方の、二百メートルほどの朝房山の東麓にある「あほっけ」という妙な読み方をする場所で、二、三十人の人々と救出の船を待っている片岡の心の中にも、そのもの悲しい気分が吹きつづけていた。すでに水戸市は完全に水没し、標高百メートルのその村落のすぐ下まで、鉛色の海がおしよせ、そこここの丘陵の尾根を岬に変えて、白い波が、樹林の梢を直接噛んでいる。
(龍の日本列島がのたうち回って沈んで行く姿をえがいたエピローグにあります。昭和48年の出版だそうです。)

 

「桜田門外ノ変」 吉村昭
 安政四年(一八五七)正月二日-。前日は、朝から雲一つない晴天で、水戸の城下町には、元日らしいおだやかなにぎわいがひろがっていた。武家の玄関には根切りにした男松女松が左右に立てられ、豪商の家々にも門松がつらなり、正装した男女が連れただって神社に詣でる姿がみられた。年賀の者たちは、家並みの間の道を往き交って、知り合いの者に会うと挨拶をかわし、また、城中恒例の礼式に参列する藩士たちは、ぞくぞくと登城した。しかし、一夜あけたその日の城下町は、異様な空気につつまれていた。神社に詣でる者はいたが、多くの者たちが、江戸に通じる道にむらがっていた。
(映画にもなった作品のようですが、その書き出し部分です。平成2年の出版だそうです。)

水戸を書いた文献(1)

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