佐々宗淳(さっさむねきよ) 1640-1698
はじめ僧侶だったそうですが、仏教に疑問を持って、儒学を学んだそうです。還俗してその後、徳川光圀に見こまれて彰考館に入り、元禄元年(1688)総裁に任命され、大日本史の編纂をおこない、その資料収集のために各地をまわったそうです。総裁辞任後は、光圀隠棲地の西山荘で光圀に仕たそうです。通称を介三郎(すけさぶろう)といい、黄門漫遊記、助さんのモデルだそうです。墓は、水戸ではなくなく、常陸太田市増井町1514の正宗寺にあります。
安積澹泊(あさかたんぱく) 1656-1737
祖父が小笠原藩を脱藩して、後に水戸藩初代徳川頼房に仕えたそうです。澹泊は、朱舜水に入門して儒学を学んで、彰考館に入り、元禄6年(1693)、38歳で佐々宗淳らとともに彰考館総裁になったそうです。退職後も、紀伝稿本などの点検を行なったそうです。名が覚(さとる)で、黄門漫遊記の格さんのモデルだそうです。墓は常磐共有墓地(松本町13-34)にあります。
立原翠軒(たちはらすいけん) 1744-1823
徳川時代には異端だった徂徠(そらい 荻生徂徠)派の流れをくんだ学者だったために日陰にいたそうですが、水戸藩6代徳川治保(はるもり)によって登用されて、天明6年(1786)には彰考館総裁に任命され、滞っていた大日本史編纂事業を再びおしすすめたそうです。光圀100年忌には本紀・列伝を光圀の廟に献じたそうです。墓は六地蔵寺(六反田町767)にあります。
藤田幽谷(1774-1826)
古着商の子だったそうですが、立原翠軒の門人となり彰考館へはいったそうです。大日本史編纂の方針で翠軒と対立を深めたそうですが、翠軒が身をひいたことによって、その後の流れがきまったようです。文化4年(1807)に34歳で彰考館総裁となり、翌年には郡(こおり)奉行になったそうです。また、幕末尊王攘夷の理論的支柱になった「新論」を書いたそうです。藤田東湖の父で、墓は常磐共有墓地(松本町13-34)にあります。
会沢正志斎 (1782-1863)
百姓出身の家で、父は下級武士だったそうです。幽谷に師事して、その後、彰考館に勤めるようになったそうです。江戸では、徳川斉昭の教育にも携わったそうです。文政13年(1830)に彰考館総裁になり、天保11年(1840)には藩校・弘道館初代頭取にもなったそうです。墓は本法寺(千波町2367)にあります。