水戸の石といって頭に浮かんでくるいくつかを並べてみます。
神崎石(かみさきいし)
笠原水道は徳川光圀がつくったそうですが、石製の樋を地中に埋めて水を通す方式は水戸藩だけだったようです。石樋は、偕楽園あたりの台地下にある、比較的やわらかい凝灰質砂岩の神崎石によってつくられているそうです。写真は常磐町にある、神崎石を掘り出した跡の穴の冬景色です。(この穴が笠原水道の石樋用にほられたかどうかは分かりません)
弘道館記碑(三の丸1-6)
「弘道とは何ぞ 人 能(よ)く道を弘(ひろ)むるなり」ではじまる、藤田東湖が草して徳川斉昭が書した弘道館記は、寒水石という真弓山(常陸太田市)でとれた大きな白い大理石に刻まれています。弘道館鹿島神社脇の八卦堂に納められていて、時々公開されています。
要石
上は、鹿嶋市にある鹿島神宮の要石にならって、「行く末も 踏みな違(たが)へそ 蜻島(あきつしま) 大和の道ぞ 要なりける」という斉昭の歌が刻された要石の石碑(三の丸1-6)です。下は、鹿島神宮の要石を模した、河和田町・鹿島神社境内にある要石です。
石蔵
水戸には数多くの大谷石でつくられた石蔵があります。郊外を散策するときの楽しみの一つは、これらどっしりとした石蔵を見ることです。写真は小泉町にある民家の石蔵です。
石仏
天保の改革のときには、石仏等の廃毀も行われたようですが、斉昭の幕府による致仕謹慎処分(強制的な隠居と駒込中屋敷に幽居)により中途半端のままに終わったようで、今も多くの石仏を見ることができるようです。最近は、道路工事などで一か所に集められていることが多いようですが、見る者にとってはかえって都合のよいこともありそうです。(本当は以前あった場所などが分かるようになっているとよいのでしょうが。)写真は大場町の石仏群です。