心越
徳川光圀によって水戸に招かれた明の僧・東皐心越(とうこうしんえつ)は、高僧であっただけでなく、いろいろな才能をもっていて、篆刻(てんこく)、七弦琴、書、詩にもすぐれていたそうです。特に篆刻では少し前に同じように明から日本に来た独立(どくりゅう)とともに日本における篆刻の始祖といわれているそうです。また七弦琴でも日本の琴楽の中興の祖といわれているそうです。写真は祇園寺にある心越の墓です。
宮田則兼(のりかね)
大井神社の脇にある廃寺になった飯富・龍光院の墓地に、宮田助九郎則兼の墓があります。この宮田則兼は、幕府講武所へ水戸藩の推薦で行き、その師範となったそうで、その門弟に千葉周作がいたそうです。講武所退任後は飯富に戻って道場を開いて後進を指導したそうです。千葉周作の江戸での道場・玄武館が攘夷論だったり、徳川斉昭が水戸藩に千葉を剣術師範として招いたりしたこととは、宮田と関係しているのかもしれません。写真は宮田則兼の墓です。
桂小五郎
文久3年(1863)に毛利家から斉昭の墓参り(三回忌に朝廷より権大納言の位を授かったことの祝詞をあげにきたそうです)の使者として、桂小五郎が水戸へ来たそうです。本一町目の会所に2日間とまり、常陸太田市にある水戸徳川家の墓所である瑞龍山に行ったそうです。全員で5~6人の少人数だったようです。このときに、藤田小四郎に天狗党挙兵の軍資金が渡されたともいわれているようです。写真は水戸コンベンション協会発行の水戸の城下町マップの会所あたりです。少し文字などを加えています。
鮭の養殖
明治10年に農商務省の技師の指導で、青柳の菊池家が那珂川で日本最初の本格的な鮭の人工ふ化放流事業に成功したそうです。その成果は高く評価されて、現在では全国的に広がっているそうです。この菊池家は、光圀時代以来、那珂川の鮭漁の漁業権が与えられていた家だそうです。写真は水府橋から見た、青柳方面です。
出羽海
第19代横綱になった常陸山は有名ですが、その常陸山が明治24年に身を置いたのは出羽海部屋だそうです。親方は4代目出羽海運衛門で、水戸の肴町(今の本町2あたり)出身の本名五十嵐虎吉という人だったそうです。常陸山というしこ名で、前頭筆頭までなり、引退して出羽海運右衛門と改名して出羽海部屋をついだのだそうです。現役引退後、横綱常陸山は出羽海を襲名したそうです。写真は水戸コンベンション協会発行の水戸の城下町マップの肴町あたりです。少し文字などを加えています。