今、水戸市役所1F多目的スペースで、来月8日まで、「常陸佐竹展」という、佐竹氏のパネル展示が行われています。

金採掘跡(木葉下町 森林公園西南の登り口あたり、有賀町 かたくりの里(有賀町1806))
佐竹氏は数多くの金山開発を行ったそうで、今でも木葉下(あぼっけ)町や有賀町にその採掘跡が残っています。豊臣秀吉の重臣となった佐竹義宣(よしのぶ)は、「分一」という鉱山産出額の一割の運上を秀吉に納めていたそうです。徳川氏の時代には、採算的にあわなくなっていたようで、「佐竹がいなくなって、金が石灰になってしまった」などという伝説が語られたそうです。写真は平成28年に撮した木葉下町の遺跡です。

吉田城(常照寺 元吉田町2723)
吉田城は大掾氏の一族である、吉田氏を称した盛幹(もりもと)が築き、江戸氏を経て、佐竹氏の水戸進出とともに、重臣である車丹波守(たんばのかみ)の居城となったそうです。佐竹氏の秋田転封に伴い廃城になったそうです。今は常照寺になっていて、本堂が本丸の地だったそうですので、車丹波守の住まいもそのあたりにあったのでしょう。写真は誠照寺本堂です。

竹熊城(表示石柱 竹隈市民センター(柳町2-5-8))
竹熊城は、常陸平氏の石川望幹が、地名の武熊(今は竹隈という漢字になっています)を名乗って館を築いたことにはじまるそうです。佐竹氏時代には、一族の佐竹東家の佐竹義久が3万石で居住したそうです。竹隈市民センターにある解説の石碑、東台という地名(佐竹東家からともいわれるそうです)、桜川の搦手橋(からめてばし)が、竹熊城の名残といっていいのでしょう。徳川氏の時代になって、湿地を埋め立てて下市を造成したときに、武熊城のあった高台は崩されて、埋め立ての土石として使われたそうです。佐竹色をなくすという意味もあったのでしょうか。

薬王院(元吉田町682)
佐竹氏は、本拠地・常陸太田から一条院を移し、一族の僧侶を院主として、天台宗だった薬王院を、真言宗の寺院にしたそうです。佐竹氏が秋田へ去って、一条院も秋田へ移り、水戸の一乗院は再び天台宗の薬王院に戻ったそうです。水戸に一部残った一条院は、今の那珂市(法満山一乗院 那珂市飯田1085)へ移ったそうです。

光台寺(上水戸3-1-39)
浄土宗・光台寺は、天正11年(1583)に、佐竹義宣によって並松町に建立され、開山は雲雪上人だったそうです。寛永年間(1624- 1644)に徳川光圀によって今の地へ移ったそうです。写真は光台寺本堂です。
水戸の佐竹氏ゆかり(2)