ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の〇(5)

2017-10-31 21:21:41 | 水戸

土俵形花壇(常陸山生誕地 城東1-11-32)
  常陸山の記念碑がある場所に、四方に徳俵もついている土俵型歌壇があります。

 

一百万遍供養塔(中丸町 中丸バス停近く)
 文化3年(1806)と刻まれています。これはひょっとすると、まん中に鉄棒を通して回しながら念仏を唱えていたもので、何かの理由でここへ運ばれてきたのかもしれません。今のところ、水戸でこのような供養塔を見たことがありません。双体の道祖神があるところです。

 

卒業記念碑(堀原小学校 水戸市新原1-7-1)
  台石に何年分もの卒業年度が刻まれた紀念碑です。

 

まんまる(万ん末る 山口楼  大工町1-5-20)
  料亭到着時に出る一口菓子です。あさ川の和菓子で、正確にはまんまるお月様というようです。

 

球形の石(百合が丘団地)
  団地中央にある小公園周辺に並べられた、歩道と車道との装飾的境界石のようです。

水戸の〇(4)

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水戸の古木(6)

2017-10-30 21:17:39 | 水戸

 今回は、民家で見た古木です。年数は市の建てた保存樹表示に記された数字です。

 

イトヒバ(河和田)  300年
  イトヒバはサワラの園芸品種だそうです。枝をたくさん茂らせた、どっしりした姿です。

 

イヌツゲ(麺屋三一五 笠原町86-1) 400年
  イヌツゲはあまり大きくならないようですが、いかにも風雪に耐えたという姿をしています。

 

キリシマツツジ(見川3) 700年
  このツツジは、幹が折れて小さくなってしまったそうです。同じ庭にもう1本、700年のキリシマツツジがあります。

 

シイ(河和田町) 250年
 桜川・膳棚近くの細い未舗装の小路脇にありました。

 

ツゲ(見川3) 500年
  これもキリシマツツジと同じ家です。郷士だった歴史ある家のようでした。

水戸の古木(5)

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水高出身の文化人(2)

2017-10-29 20:27:07 | 水戸

 水高は、旧制水戸高等学校で、現・茨城大学前身の一校です。

 

相良守次(さがらもりじ 明治36年-昭和61年)
 山形県生まれで、水高を経て東京帝大へはいり、昭和27年東大教授となり、後、名誉教授を授与されたそうです。ゲシュタルト心理学を日本に紹介したり、日本心理学会会長を5期つとめたりしたそうで、「記憶とは何か」、「心理学概論」などの著作があるそうです。独和辞典の定番を編纂した相良守峯(もりお)は兄で、守峯は一時、水高の教授をしたそうです。

 

今井正(いまいただし 明治45年-平成3年)
 東京生まれで、水高の後、東京帝大へ。映画監督となり、昭和14年の「沼津兵学校」を第1作として、戦後、「青い山脈」などを手がけたそうです。レッドパージにあい、独立プロで活動するようになったそうです。その後、独立プロ運動の牽引役として活動して、「純愛物語」、「武士道残酷物語」、「橋のない川」などをつくり、多くの賞を受けたそうです。

 

出澤三太(でざわさんた 大正6年-昭和60年)
 星製薬の創業者・星一(はじめ)の庶子として東京に生まれ、長野県の北澤家の養子になったそうです。中学時代から句作をするようになり、水高時代に水高俳句会を創設、東京帝国大卒業後招集されて軍隊へはいったそうです。戦後、星製薬の再建に携わりましたが1年程で退いて、異母弟の星新一があとをみることになったようです。水高時代1年後輩の金子兜太らと同人俳誌「青銅」を発刊し、晩年は「すずかけ」の主催者として活動したそうです。

 

大石泰彦(おおいしやすひこ 大正11年-平成26年)
 大分県生まれで、水戸中から水高を経て東京帝大へ。昭和35年東京大学経済学部教授となり、その後名誉教授を授与されたそうです。厚生経済学、道路経済学、生活経済学などの分野を研究し、郵政研究所所長にも就任したそうです。「経済原論」などの著作があるそうです。

 

山田宗睦(やまだむねむつ 大正14年-)
 山口県生まれで水高から京都帝大にはいったそうです。昭和37年「思想の科学」編集長となり、昭和40年、保守派知識人を批判した「危険な思想家」を出すとベストセラーになったそうです。「道の思想史」「花の文化史」などの著作もあるそうです。

水高出身の文化人(1)

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徳川光圀の話あれこれ(2)

2017-10-28 21:12:04 | 水戸

 徳川光圀の侍医だった井上玄桐が残した「玄桐筆記」にある、光圀の逸話のいくつかです。

 子供のとき、屏や屋根の上を走るのが好きで、その敏捷な動きについてくることのできる人はいなかったと本人が語っていたそうです。

 父の頼房が、戦場で自分が重傷をおったとき、お前は自分を助けるかと聞くと、あなたの身を乗り越えて敵と戦うと答えたそうで、頼房は感心したそうです。

 江戸の屋敷で、兄と馬上での竹刀(しない)打ちをしたそうですが、相手にならなかったため、負けん気の光圀は、組み付いて自分が上になって一緒に落馬し、首を取るぞというと兄は、とってもよいが腰が痛いといったそうです。また、光圀は乗馬は得意で、馬上に立ったり、どんな悪馬でも乗りこなしたそうです。

 辻相撲にもときどき出たそうですが、強く投げられて失神したこともあったそうです。ある夜、駒形で相撲をしたとき、味方がすべて負けてしまい、腹いせに、味方皆で着物を着て、にくきやつめと刀をひらめかして相手を裸のままに逃げ散らせたそうです。悪さをしていた頃の話だそうです。

 若い頃でしょうが、江戸にいたころ、しばしば身をやつして外出することがあり、町々の間道まで非常によく知っていたそうです。これは何かあったときに江戸近辺の地理を知らなくては、人を動かすのに都合が悪いという考えからだったそうです。

 写真は、祇園寺にある亡き東皐心越を追悼した光圀の七言絶句です。

徳川光圀の話あれこれ(1)

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水戸の包装紙(1)

2017-10-27 20:11:28 | 水戸

 かつては包装紙がその店に関する大きな話題になっていたようですが、最近はあまりいわれなくなったようです。それでも、まだまだ包装紙はその店の顔としての役目を果たしているようです。

 

北澤売店(三の丸1-6-29)
 水戸藩校・弘道館の敷地内で、水戸拓といわれる石碑の拓本や土産物を販売しています。かつては藩校・弘道館の出版物を印刷していた家だそうです。

 

但馬屋(泉町1-7-7)
 豆菓子を販売する店です。ブログみとぶらさんでは、この店で節分に売られる福㐂豆を水戸のソウルフードと呼んでいます。新文化会館建設のために、近くの地に移転するそうです。

 

入船堂(南町3-4-14)
 上町(かみまち)といわれる水戸駅北側にある、南町3丁目商店街にある煎餅の老舗です。紅白梅煎餅がありました。

 

亀じるし(見川町2139-5)
 江戸時代に漬物業から出発した、現在、「水戸の梅」等の菓子を販売する、水戸の菓子製造大手です。最近、五三かすていらがモンドセレクションで金賞を受賞したそうです。

 

伊勢屋(本町1-5-6)
 今や本町(ほんちょう)で一番知名度がある店でしょう。きんぴら団子などで有名なようです。

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