ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の字(4)

2022-01-31 09:19:00 | 水戸

頼房書状(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 去年開催された徳川頼房展にありました。柳生宗矩(むねのり)宛の書状にある署名です。「水戸中納言 頼房」とあります。「行書は結構整然たる中にも而(しか)も悠々迫らざる所あり」という頼房の書に対する感想もあります。

 

光圀書状(水戸市立博物館 大町3-3-20)
 これも徳川頼房展にありました。光圀が弟の松平頼隆に宛てた書状にある、水戸の字です。「水戸宰相 光圀」と書いています。

 

郭沫若書状(「市政こぼれ話」大高實著)
 水戸の日中友好の架け橋になった、郭沫若からの書状だそうです。

 

原尖庵(せんあん)碑(常照寺 元吉田町2723)
 常照寺には斉昭が命名したという茶室・不言亭があります。茶事がよく行われたのでしょう。原尖庵は、石州流水戸藩茶道を継承して明治42年に発足した何陋会(かろうかい)の初代会長になった茶人だそうで、その碑が常照寺にあります。書は門人の大内栄のようです。

 

水戸東武館看板(北見町2-15)
 最近新しい看板に掛け替えられたようですが、この新しい看板の書は、石川楽堂のようです。
 
水戸の字(3)

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ぶらっと歩きの風景in水戸(91)

2022-01-30 18:34:03 | 水戸

雪の螺旋(南町)
 7日に南町の徳川斉昭銅像近くで見た、雪の螺旋です。風のせいでできたらしい自然のアートです。。

 

ドッグラン(南町)
 これも南町で見たドックランです。水戸まちなかリビング作戦の一環として設置されたようです。まちなかの空きスペースを、一時的であってもアイディアで有効に活用することはもっとあってよいのでしょう。

 

コクチョウの巣(千波湖南岸)
 千波湖南岸の遊歩道近くにコクチョウの巣があって、抱卵しているようでした。そう遠くなく、ひな鳥が見られるのでしょう。

 

オセロクイズ(水戸市役所)
 水戸市役所内に、オセロクイズがありました。参加するとプレゼントがもらえるようでした。

 

南崖の穴(千波町36°22'19.7"N 140°27'50.1"Eあたりから)
 千波湖北岸の道路工事で、路線がかわったために、正岡子規も興味を持った南崖の穴が、間近で見ることができるようになったようです。JRにお願いして草取りをときどきしてもらえればもっとよく見えるでしょう。

ぶらっと歩きの風景in水戸(90)

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水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(12)

2022-01-29 20:13:03 | 水戸

 25歳のとき、江戸本邸で、1日に30本の茶杓をつくったそうです。その1本に、「櫂(かい)」と銘したものがあり、それをいれる筒には、「早船に のるかひありて 幾としを うき世の中を 渡りゆかまし」と書かれているそうです。25歳は藩主就任以前の部屋住み時代ですから、どういう心境だったのでしょう。写真は、小石川後楽園の紅葉です。

 

 毎年正月元旦には江戸城登城に先だって、庭に下りて、京都の方を向いて礼拝していたそうです。こうした尊皇の考え方が息子の慶喜に伝えられていたのでしょう。

 

 斉昭の歌に、「闇の夜に 鳴かぬ烏(からす)の声なきを 眠らで夢に いかが 聞くべき」という歌があるそうです。「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば 生まれる先の 父ぞ恋しき」という一休作という歌があるようですが、こうしたものを踏まえてつくられたものなのでしょう。理屈好きな斉昭らしい歌のようです。

 

 斉昭が行おうとすることに対して、それに反対する勢力の妨害はそうとう大きかったようです。そこで、斉昭は、まず、自分でそれを内々で試してみて、その結果からの自信を背景にして命令を下して実施させていたそうです。このあたりが、水戸藩のほかの藩主と違ったところなのでしょう。

 

 茶席をもうけたとき、席入りの合図に法螺貝を吹いたこともあったそうです。一般的には板魚や、銅鑼が使われたそうです。でも戦陣でふかれる法螺貝を茶席で使うということはどうだったのでしょう。相当な反発があったのでしょうが、自分流を行ったのでしょう。

水戸藩主・徳川斉昭の話あれこれ(11)

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水戸のラン(2)

2022-01-28 21:02:04 | 水戸


 ランという名前がついていますが、ラン科でない植物がたくさんあるようですが、そのいくつかです。

 

キミガヨラン(酒門町)
 リュウゼツラン科。アツバキミガヨランの学名にあるグロリオサ(栄光のある)という言葉を、君が代が栄えると見て付けた名前だそうです。ユッカともいい、北米原産の多肉植物だそうです。

 

サクララン(水戸市植物公園 小吹町504)
 ガガイモ科。九州や沖縄でも自生する、つる性植物で、花は多肉質で、香りがあるそうです。ホヤともいい、花がサクラのようにきれいで、葉がランに似ているのでいうそうです。写真は球状に咲いた五角形の花です。

 

ツタバウンラン(北見町、大坂をのぼったあたり)
 オオバコ科。地面をはう性質があるそうで、茎が赤紫色をしているそうです。旧分類のゴマノハグサ科に分類されていた、トキワハゼやムラサキサギゴケの花は似ているようです。葉がツタに、花がウンラン(ウンランは花がランに似ている)に似ているからだそうです。

 

 
マツバウンラン(水高スクエア 東原3)
 オオバコ科。アメリカ原産で、半世紀前ごろに入ってきた植物のようです。直立した茎の先端に花が咲き、葉が松葉に似て、ウンランに似ているそうです。

 

ヤブラン(水戸市植物公園 小吹町504)
 キジカクシ科。葉の形がランに似て、ヤブに咲くのでいうそうです。中国名は麦門冬といって、根が、のどの腫れや咳(せき)をしずめる漢方薬になるそうです。実もきれいです。

水戸のラン(1)

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水戸の母

2022-01-27 18:48:19 | 水戸

 賴宣(よりのぶ 紀州藩初代)と頼房(水戸藩初代)の母は、万(養珠院)という徳川家康側室の女性だったそうです。同じ側室のおかち(梶、勝 英勝院)が生んだ、家康最後の子どもであった五女・市姫が4歳で死んだため、不憫に思った家康は頼房(鶴千代)などをおかちの養子としたそうです。万は熱心な日蓮宗信者で、久昌院(光圀の母)や菊姫(光圀の妹)の信仰に大きな影響を与えたようです。英勝院は、一番旨い物はとの問いに塩と答え、不味いものはと聞かれると塩だと答えたといった逸話を持つ聡明な人で、家康没後、鎌倉・英勝寺を建立したそうです。光圀が旅行した唯一の私的な旅は鎌倉・英勝寺へのお参りだったそうです。写真は水戸市立博物館で見た、英勝院の芦沢信重宛書状です。

 

 森尚謙(しょうけん)は、佐々宗淳(さっさむねきよ)の紹介で水戸藩に出仕した儒者で、医学にも通じ、水戸で𠑊塾(げんじゅく 号も𠑊塾)を開いて経書・医学を講じたそうです。尚謙の母は佐久といい、身ごもると史伝を聞いて胎教に努めたそうです。尚謙は、6歳で千字文、8歳で四書、11歳で五経を習ったそうですが、これらはすべて佐久によるものと言われているそうです。一族の間でも評判の婦徳の高い女性だったそうです。写真は神崎寺にある森尚謙のお墓です。

 

 河合菊泉(きくせん)は彰考館総裁になった人だそうです。菊泉の母は、総裁時代、息子が裸で読書している姿を見て、杖で息子をうち、総裁がこの有様では館員を指導することはできないと涙を流して叱責したそうです。賢くて気性の強い女性だったようです。写真は酒門共有墓地にある河合菊泉の墓です。

 

 藤田東湖の母・梅子は気性のまさった、苦難に驚かない人だったそうです。東湖が正妻に離縁を言い渡した時は、自分が許さないと叱りつけて、恐縮した東湖にそれを撤回させたり、妾を離縁した時は、子どもの小太郎と妾が会えるようにしたそうです。東湖は江戸勤番では先ず母に手紙を書いたそうですし、どんなに酔っていても母の一声があるとおとなしくなったそうです。梅子は、地震で自分より先に死んだ東湖の血染めの衣装を大事に保存していたそうです。写真は、常磐共有墓地にある藤田東湖の墓です。

 

 斉昭の妻・吉子は、慶篤、慶喜の実母で、院号は貞芳院、諡(おくりな)は文明夫人というそうです。8代斉脩(なりのぶ)と9代斉昭は異母兄弟で、それぞれの母はたいへん仲が悪かったそうですが、斉昭に嫁いできた吉子は、大奥の老女などを懐柔して、そうしたことが外に漏れないように取り締まったそうです。また、大奥の斉昭を取り巻く女性たちをも、じょうずに御していたそうです。気性のしっかりした人で、公家の出ながら、長刀(なぎなた)や乗馬の練習に励み斉昭も一目置いていたそうです。スジのない長男・慶篤に対しても、斉昭の考えを伝えたりして、藩主の至らないところを補おうともしていたようですが、これはあまりうまくゆかなかったようです。慶喜の将軍擁立にも尽力したそうですが、聡明な慶喜に対しては危険性を感じていたらしいとのことです。維新後、明治2年から好文亭の梅の間に4年間住んで、その後東京へ行き、90歳の長寿を保ったそうです。賢夫人で、しっかりした判断力を持っていた人のようです。写真は好文亭の梅の間です。

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