ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸ののれん色々(1)

2017-01-31 21:49:55 | 水戸

 色でのれんを見ていますと、黒が結構目につきました。また、いわゆる和色の、中間色が多いのも特長のようでした。でも、一番多かったのはさすがに藍の国だからなのでしょうかか、青系のもののようでした。これらは水戸の特長なのかもしれません。泰清堂は素材が麻製ということで、色々の一つとしました。

 

 

黒  和菓子 油屋(本町2-2-10)

 

 

白  鉄板焼 巨匠(五軒町3-6-7)

 

赤系  焼肉 ボンバー(宮町2-5-4)

 

 

えんじ系  煎餅 入船堂(南町3-4-14)

 

茶系  とんかつ 楽天(宮町2-5-6)

 

 

黄色系  郷土料理 五鐵 夢境庵(南町1-3-27)

 

 

緑系  日本料理 吉永(宮町2-7-28)

 

 

紺系  質業 斉藤質店(本町1-10-21)

 

 

麻製  京表具 泰清堂(五軒町3-3-3)

水戸ののれん 水戸ののれん(夜の部) 

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みとちゃんの進出状況(2)

2017-01-30 20:59:38 | 水戸

 みとちゃんは、行政以外へもだんだん進出してきているようです。みとちゃんは女の子で、誕生日は3月10日、好きな食べものは、納豆、森のシェーブル館のレアチーズタルト、水戸藩らーめん、梅干だそうです。水戸歴史文化検定の試験にでそうですね。

 

道路工事用バリケード
 三の丸の工事現場で見ました。表裏があるところは秀逸です。

 

バリケード
 千波公園で見かけました。

 

駐輪場
 内原駅前の駐輪場で見ました。

 

自動販売機
 水戸っ子亭(本町3-3-6)でみました。向かいの店にもありました。

 

ぬりえ、れんらくちょう
 ㈱きど印刷所が、第41回の水戸市産業祭に出品していました。

 

弁当
 ㈱大森食品が、第41回の水戸市産業祭に出品していました。

 みとちゃんの進出状況(1)

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水戸市本町裏側の職業的名のついた町

2017-01-29 21:26:27 | 水戸

 このあたりは、水戸藩初代・徳川頼房による、上市(うわいち)の商人を、湿地を埋め立てて造成した下市(しもいち)に移す「田町越え」によって作られた一帯です。本通りの本町(ほんちょう)には、東西に本一丁目、裡一丁目といった町名が付いています。南北にはこうした職業的名称が付けられたのでしょう。地図の数字は旧町名の碑がある場所です。外に、塩町の北方に白金町が、銷魂橋を渡った備前堀の南側には紺屋町があります。

 

江戸町(えどちょう)①
 魚類を江戸に送り出す商人の居住した町で、初めは江戸肴町といわれたそうです。6代徳川治保(はるもり)の時代、「江戸仕掛」という経済振興策の一環で、芝居の興行などが行われたそうです。

 

檜物町(ひものちょう)②
 桶、指物(さしもの)、駕籠(かご)などを作る職人が多く住んだ町だそうです。藩の御用達職人である、弓、矢、鉄砲の職人もいたそうです。

 

肴町(さかなまち)③
 藩の初め頃は藩内でとれた魚はここの問屋に集められて、藩に納入され、その残りが魚商人に販売されたそうですが、だんだん自由販売に近いかたちになっていったようです。

 

青物町(あおものちょう)④
 元は紙町といわれたそうですが、文化元年(1804)に八百屋が多かったので、青物町と改められたそうです。

 

 

塩町(しおちょう)⑤
 御塩屋・四郎左衛門等の塩問屋があったので名づけられたそうです。

 

材木町(ざいもくちょう)⑥
 材木を扱う商人が多く、藩でも竹木、挽臼、桶類の独占販売を許可したそうです。財政の厳しかった藩は、この業種ばかりでなく、特権を与える代償として税収をねらったのでしょう。

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水戸の太鼓橋(1)

2017-01-28 21:42:44 | 水戸

 太鼓の胴のように、半円形近くにつくられた橋を太鼓橋というのだそうですが、半円近くというのはどういうものでしょうか。亀戸天神の太鼓橋は相当な曲線形につくられていますが、それでも円周の3分の1といった感じです。常識的には少し湾曲している橋を太鼓橋といってよいのでしょう。それなら水戸でもあちこちで見ることができます。

 

福徳橋(六地蔵寺 六反田町767)
 六地蔵寺境内にある弁天社に渡る石橋です。弁天社に度る橋には、太鼓橋が多いようです。

 

金剛橋(備前堀)
 かつて人気のあった金上山不動寺へ向かうために、備前堀を渡る橋として作られたそうです。

 

大手橋(水戸城)
 三の丸から二の丸に行く橋ですが、徳川氏の時代前に、佐竹氏が作ったそうです。今の橋は昭和10年に作られたと橋柱に記されています。

 

芳流橋(千波湖北)
 千波湖の北を流れる桜川にかかる橋で、千波湖の、ここから東が釣り禁止で水鳥保護区域、西が釣りが出来る区域だそうです。

 

内原かたくり橋
 現代の橋も、数多くこうした太鼓橋状に作られているようです。

 

好文亭太鼓廊下(常磐町1-3-3)
 川を渡る橋ではありませんが、これも太鼓橋の一種でしょう。外からは、ここが太鼓橋型になっているようには見えません。

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徳川斉昭の改革余波を受けた寺(1)

2017-01-27 20:38:23 | 水戸

 徳川斉昭による、尊皇思想による仏教排斥と、攘夷を実行をするため濡仏等を鋳つぶして銃砲製作をしたりした、改革政策実施による寺への影響の一部です。多くは、規模が大きく縮小したり、なくなったりしているようです。

 

 

円通寺(千波町1227)
 斉昭の改革の際に廃寺となり、一時、家老職の鈴木石見守に跡地が与えられたそうです。よく今のような大刹に復興したものと感心します。

 

 

宝鏡院不動堂(城東1-11)
 斉昭の天保の改革で処分され、寺宝は神崎寺(かみさきじ)へ移されたそうです。宝鏡院門前という地名が残ったようですが、それもなくなってしまいました。名残の不動堂があります。

 

 

羅漢寺(谷田町あたり)
 明和7年(1770)に竣工した「水戸城眼下に」見おろす大寺だったそうですが、斉昭の改革期(1830-40)にはすでに老朽化しており、「大破」ということで「人夫百余名をして一時に破壊」されて廃寺になったそうです。その遺物がわずかに宝蔵寺に残っています。写真は水戸綺談にあるものです。

 

 

妙雲寺(見川2-103-1)
 天保13年(1842)、梵鐘等の供出をこばんだため、名目は「破戒不如法」ということで、土地を没収され、その跡地の大部分が武田耕雲斎に屋敷地として与えられたそうです。さらに、嘉永5年(1852)、幕末の騒乱の際、焼き討ちにあって焼失したそうです。

 

 

吉沼観世音跡
 ここは徳川光圀の改革で廃寺になり、その後、川崎から観音寺が移されたそうですが、斉昭の時代には坊さんがいなくなっていたようで、「不如法無住}という名目で廃寺となっています。跡地は西郷監物に与えられたそうです。

 

 

常照寺
 ここも処分されて下古内の清音寺へ寄寺(合併)となり、山野辺兵庫頭に跡地が与えられたそうです。ここはかつて、大掾(だいじょう)氏の一族、吉田氏や、その後は佐竹氏の臣、車丹波守の居城になった地だそうです。

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