人は物心つけばたいていは素朴実在論を身に着けると言われている。目にした木や石やリンゴが(見えている)そこに、自分の外部に実在する、というようなものの見方である。通常の日常生活を送っている分には、素朴実在論は十全な理論であり、破たんすることはまずない。テーブルの上におやつがあって、それを弟と取り合いになったことはないだろうか? 自分に見えるおやつは弟にも見えているのである。このような経験、つまり他者とのコミュニケーションを通じての整合性の確認を繰り返して、眼にするものの実在を確信するようになる。
しかし、現代社会において人々はいろんな知識を身に着ける。そして、科学的知識を身に着けていくと、素朴実在論は維持できなくなるのである。
テーブルの上のリンゴは太陽光線を反射する。その反射光が人間の目に入り、網膜に像を結ぶ。網膜には視神経があって、その像が視神経を通じてセンスデータとして脳に送られ、脳でその像を認識する。というようなことを学校で学ぶわけである。
すると、我々の見ているものは、センスデータによって脳に生じたリンゴの観念であって、リンゴそのものではないということになる。ここで、物そのものvs観念という分裂が生じてくる。この段階を一応「科学的実在論」ということにする。(カントはこれを「超越論的実在論」と呼んでいる。)
科学的実在論では、我々が見ているものは観念であるが、実在するのは物そのものであると考える。そして、物そのものと対応する観念にはそれぞれ同型の構造を持つと考えられている。たまに、カントの物自体を「物そのもの」と同一視している人がいるが、全然別の概念である。物自体には観念との同型構造が想定されていないからである。
ここで一つ問題が生じてきた。物そのものの実在から我々が見ている観念については整合的に説明できるのだが、その逆はできないことに気がついたからである。よくよく考えてみれば、我々の意識の中には観念しかないのである。もし、物そのものが実在するものであれば、観念を逆にたどってものそのものに到達できなければならないのに、実はそれが出来ない。これが懐疑論のそもそもの発端であり、哲学者たちの膨大な知的エネルギーがつぎ込まれたが、いまだに最終的解決には至っていない問題でもある。
この問題に一つの解決を与えようとした人が、アイルランド生まれの哲学者ジョージ・バークリーです。「存在するとは知覚されることである。」と言って、実在としての物質を否定します。彼は観念と同型構造を持つ「物そのもの」について、「観念に似た『物そのもの』を想定してみても、実は観念に似た『観念』を想像しているに過ぎない。」というのです。これが本格的な観念論の始まりです。
( つづく )
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