禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

確証がないということ

2024-12-13 09:16:44 | 哲学
昨日(12/12)、「紀州のドン・ファン」と呼ばれた男性に対する殺人罪などに問われた元妻に無罪が言い渡された。 判決の要点として次のように述べられていた。
 
・「被告が覚醒剤の可能性があるものを買ったことは認められるが、氷砂糖の可能性もあり、覚醒剤に間違いないとは認定できない」 
(被告はネットで「アイス」という隠語で覚せい剤を購入したが、それは氷砂糖を砕いたまがいものである可能性があるという意味。)
・「ネットで『完全犯罪』等と検索しているが、殺害を計画していなければ検索することはありえないとまではいえない」 
 
被告の犯行であることを示す状況証拠は多いが、どれも決め手になる証拠とは言い難いということなのだろう。心情的にはかなり疑いが残るが無罪判決を出すしかないというのが私の感想である。

 もう一件確証について気になったことがある。兵庫県の元幹部が斎藤知事のパワハラの疑いについてである。県は、11日内部調査の結果を公表し、「パワハラがあったとの確証までは得られなかった」などと明らかにしたが、 一体パワハラの確証というのは一体何なんだろう? なにをもってパワハラがあったと認められるのだろう? この件については既に、県議会の百条委員会が県職員にアンケートをとっている。 その結果によれば、「知事のパワーハラスメント」について、「目撃(経験)等によって直接知っている」と回答したのは140件。「目撃(経験)等によって直接知っている人から聞いた」と「人づてに聞いた」を合わせると2851件になり、全体の42%を占める。 兵庫県庁といういわば大組織において、そのトップである知事のパワハラについて、これだけの職員が見聞しているということはただ事ではない。同程度の規模の企業に置き換えてみれば、その異常さが際立っていることに気がつくはずだ。パワハラの定義は難しいが、それだけに最終的には個々人の主観による判断しか無いとも言える。つまりパワハラに関して言えば、どんな場合でも確証がないという理屈をでっちあげる事が出来るのである。県の内部調査による「確証なし」は著しく疑わしい、と私は考える。

12月12日の日の出時の富士山(横浜市港南区より) 記事内容には関係ありません
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