(前回記事からの続き)
岩波文庫の「善の研究」の累積発行部数は既に120万部にも達しているらしい。哲学書としては破格のベストセラーと言っても良いだろう。内容的にもそれ程理解しやすいものではないにも拘らず、これだけ発行部数を重ねているというのには驚きである。
「善の研究」は4編から構成されているが、まず最初に書かれたのは第2編であると西田自身が述べている。初めてこの本に取り掛かる人は、先ず第2編から読み始めるのが良いような気がする。現象学という視点から見れば、特に第2章「意識現象が唯一の実在である」に着目したい。第2編第2章は次のような言葉から始まっている。
≪少しの仮定も置かない直接の知識に基づいてみれば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求より出でたる仮定に過ぎない。‥‥‥‥‥
我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有するものを抽象したのに過ぎない。≫
すごく難しいことを言っているようだが、その内容は簡単である。「禅的現象学 その1」で述べた「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴがあると想定している」と同じ内容のことを言っているのである。私たちは、「そこにリンゴという物体が実在しているから私たち(の視野つまり意識)に赤くて丸いものが見える」と考えがちである。科学的知識を持つとさらにこの世界を物的世界とみる唯物論的な傾向が強まるのが普通である。「リンゴが可視光を反射して視神経にその刺激が届くと、私の視野に赤くて丸いものが映し出される。」というふうに、私たちの意識現象までもが全て神経の発火現象というような物体現象に還元されてしまうように考えるようになる。
唯物論的視点に立てば実在するのは物であってあらゆることが物体現象として説明できるように思えるが、西田はそれを強く否定する。なぜなら私たちは物体現象に直接触れることは決してないからである。私が経験するものはすべて私の感覚器官を通してしか入ってこないはずである。つまり、私たちには意識現象しかないのである。私たちはお互いの経験(意識現象)を総合して矛盾のない物的世界を推論によって構成しているのである。物体現象はあくまで『推論によって構成したもの』、つまり一種の虚構とも言えるとまで言っている訳である。
「物体現象は一種の虚構」と言ってしまえば、大乗仏教で言うところの一切皆空に実にフィットする。「空」というのは一切の既成概念の否定である。言葉そのものは概念を表現するものであるから、言葉を使用する思考そのものが既成概念による何ものかを構築する作業に過ぎないのである。われわれが言葉にするものすべては既成概念の上に立脚するなんらかの解釈であるからには、必ず何らかの偏見に毒されているとみなさなければならない。そのように考えていくと、実在するものはわれわれが直観するもの、すなわち直接経験とも言うべき意識現象しかないわけである。
しかしよくよく反省してみれば、この「意識現象」という言葉自体は、唯物論的な視点から見た科学的世界観の中に位置づけられた言葉である。意識現象が唯一の実在であるならば、そこには主観も客観も無いわけで意識現象なるものも存在するわけはない。そこで西田はここで「意識現象」と称していたものを「純粋経験」と言い改めるのである。第1編(純粋経験)と第2編(意識現象が唯一の実在)が記述された順序が逆であると考えれば腑に落ちる話である。