≪ただ素朴に山があるという原事実、それが「純粋な実在論」の意味である。≫
ここで私は「原事実」という言葉を使っているが、このことについて少し説明をしたい。今、目の前のテーブルにリンゴが置かれているとする。すると、科学教育を受けた現代人は、「リンゴから反射された可視光線が、私の目に入ることによってそのリンゴが私に見える。」と考える。つまり、「リンゴが有るから、赤くて丸いものが見えている。」と考えている。しかし、哲学者に言わせれば、これは実は逆で「赤くて丸いものが見えているから、そこにリンゴが有ると(推論によって)想定している。」ということになる。このことについて、西田幾多郎の「善の研究」を参照してみたい。
≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (第二編第二章「意識現象が唯一の実在である」より)
「赤くて丸いものが見えている」ということが、ここで言う意識現象ということであり、「リンゴが有る」ということが物体現象の意味である。「物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。」というのは、各人が「赤くて丸いものが見えている」とき、そこに物体現象としての「リンゴが有る」とすれば整合的であるということである。リンゴだけではなく、机やいす、家や道路等、世界を各人の意識現象を整合的に物体現象の集合として構成する、このことを指して西田は、「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したもの」と言うのである。
しかし、西田は「善の研究」の同じ章で次のようにも言っている。
≪余がここに意識現象というのは或は誤解を生ずる恐がある。意識現象といえば、物体と別れて精神のみ存するということに考えられるかもしれない。余の真意では新実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられない者である。≫
意識現象とか物体現象とかいう言い方が、すでに科学的視点つまり物体現象を基盤にするものの見方である。原事実としての現象を言い表す表現としてはふさわしくない。そこで西田はこれを「純粋経験」と呼んだのである。世界は物の集まりではなく、純粋経験の集まりである。純粋経験はあくまで純粋であり他の何かに媒介されたものではない。まさに原事実として直に立ち現れているものである。大森荘蔵は「立ち現われ一元論」というものを提唱しているが、西田の純粋経験論に通じるものだと考えられる。バートランド=ラッセルも中性一元論というものを唱えているが、原事実というものを追求していくと、物と心(意識)という二元論は必然的に立ちいかなくなるのである。
(次回「経験あって個人ある」に続く)
大雄山最乗寺(神奈川県南足柄市)