「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようという意志を意志することはできない。」と言ったのは、哲学者のウィトゲンシュタインである。彼は生前には論文を1本発表しただけであるが、彼の残した講義録や私的メモをもとに、今なお多くの哲学者が研究を続けている、そんな稀有な哲学者である。
自由とはなんでも自分の思い通り行為できることだと考えられているが、しかし、「手を上げよう」とする意志そのものを自分の思い通りに思い起こしているわけではない。では、その意志はどこから生まれてくるのか? 臨済禅ではそこのところを見極めるのが修行の目標となっている。一休さんで有名な大徳寺の開山は大燈国師という人だが、臨済宗の寺ではことあるごとに、大燈国師御遺誡というものを唱和している。修行者の心得を遺言としてしたためたものであるが、その中の文言に「無理会の処 に向かって究(きわ)め来り究め去るべし」 というのがある。無理会の処というのは分別・理解を越えたところという意味である。意志の生まれいずる処、それは我々の知的理解の及ばぬところである。では、我々を本当の意味で動かしているのはいったい誰なのか? 我々は本当は自由ではないのだろうか?
腕を思い切り振り回して、「どうだ、俺は思い通り動いている、おれは自由だぁ」と力みかえるのが自由というわけではない。腕を上げようとする時すでに腕は上がり始めている。自然にそうなるのである。自然(じねん)であることを禅仏教では「自由」というのである。