最近老化現象が加速してきて、とかく忘れることが多くなった。
何かものを取ろうとして立ちあがったとたん、何のために立ち上がったのかを忘れている。主体が無意識であることを実感する瞬間だ。
若者にとって、自分が何を求めているのかが分からないということはよくあることである。それは今までに未経験のなにかしら衝動を感じているのだが、折り合いのつけ方が分からないのだろう。こんな時「自分は何を探すべきなのかを探している。」ということになる。わかるはずのない答えを探すのは禅の公案に似ているが、実のところ思考が空回りしていることが多い様だ。
数学にしろ哲学にしろ、解き方以前に問題の意味が分からないということがままある。問題を解く前に、問題がどのように成立しているかを分析しなくてはならない。問題の構造さえ明らかになれば解き方はおのずから確定する。哲学の場合は、何を探しているかが分かった時点で、問題は解決であることが多い。
以前「朝はどこから」という歌について考えてみたことがある。人は何を答えとして求めているのか分からないまま問いを立てる、という例としてである。
私は幼稚園の頃、その歌を聴いて「ほんまに朝は何処から来るんやろ?」と真剣に考え込んでしまったのだ。その歌の歌詞からだと、それは明るい家庭から来るらしい。いかに幼稚園児といえども、そんな説明に納得するわけにいかなかった。
♪ 朝はどこから 来るかしら
♪ あの空越えて 雲越えて
♪ 光の国から 来るかしら
♪ いえいえ そうではありませぬ
♪ それは 希望の家庭から
♪ 朝が来る来る 朝が来る
♪ 「おはよう」「おはよう」
概念という記号があれば、私たちは機械的にいくらでも問題を組み立てることができる。
・地獄は何丁目まであるか?
・生まれる前の自分と死んだ後の自分とどちらが喧嘩に強いか?
・聖徳太子はなぜ東京タワーで生まれたのか?
このような明らかに荒唐無稽な問いは愛嬌であるが、論じている内容が不明なまま議論していることは、日常的にもままあることではないのだろうか、と感じる今日この頃である。
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