禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

婆子焼庵

2015-09-25 22:38:58 | 公案

婆子焼庵は公案の中でもとりわけ難透というカテゴリーに分類されている。つまり、難しいのである。しかし、なぜかインターネット検索でヒット数が多い公案の一つでもある。おそらくこの公案がセックスと絡んでいることが世俗的な興味の対象になっているのだろう。

≪ 篤志家のお婆さんが見どころのありそうな若い僧のパトロンとなって、生活の面倒を見ていた。20年ほど経た頃、その修行の成果を試したくなったので、若い娘にその僧を誘惑するように命じたのである。娘は僧に抱きついて、「どんな気持ち?」と聞いた。
 そこで僧は「枯木寒巖に依りて三冬暖気なし」と答えた。冬の巌に立っている枯れ木のようなもので、何も感じないというわけである。
 それを聞いたお婆さんは、「わしはこんな俗物を長い間養っていたのか」と怒り、その坊さんをたたき出して、その庵も焼いてしまった。 ≫

公案に取り組むにあたっては、これを仮定の話と考えてはいけない。頭の中で「ああではなかろうかこうではなかろうか」と思案をするようなものではないということである。あくまで自分と公案が一体となって取り組むのである。そして私心を交えず誠を持って臨むということが前提となる。

一般に公案は修行者をのっぴきならない状態に追い込むような仕掛けになっている。この公案で言えば、娘を受け入れれば破戒僧になるし、冷たく拒否すれば慈悲の精神に背くことになる。一見、前に進むも後ろに退くこともできぬような状況から、八方丸くおさまるような機略を発揮しなければならないというのがこの公案の主旨である。

と、偉そうなことを述べてみたが、私はこの公案について実際に参禅したことはないことを断っておかねばならないだろう。そこに到達する以前に仏教に見切りをつけてしまったからである。なので、これはあくまで哲学的私見として述べていることをお含みおきいただきたい。

インターネットを検索してみて、曹洞宗の中ではこの僧と老婆の行為の双方を是とするような見解も一部にはあるらしい。状況の解釈次第ではそのような見方もできるかもしれないが、どうだろう、それではこの公案の意義がどこにあるのかが分からないような気がする。

やはり問題は、「枯木寒巖に依りて‥‥」という言葉にあるのではなかろうか。仏道修行は仙人修行ではないということである。何も感じなければある意味それは自由だと言えるかもしれないが、そのこと自体には何の価値もない。禅ではやたら「無」と言うので、ニヒルな印象も受けたりするが、決してニヒリズムにとらわれてはならない。ニヒルを尊ぶというのは仏教の主旨から大きく外れていると言うより真逆のことである。性欲を制御できないというのは論外だが、性欲の有る無し自体は本来仏教上の価値とは無関係である。

「枯木寒巖に依りて‥‥」の言葉には、自分の境地を誇っているような独善的な傲慢さが感じられる。坐禅をすれば不動心が得られるというのは本当だろう。しかし坐禅をするのは本来自己究明のためである、不変の真理を追究するため止むにやまれずするのであって、不動心はその結果付随してくるものである。「どんな気持ち?」と聞いた娘にとって、僧の不動心や境涯などどうでもいいことである。いい気持かどうか自分を好きかどうかを聞いたのである。

そのような観点から見るとき、「枯木寒巖に依りて‥‥」という言葉は少しずれているのである。はじめから試されていることを知っていたのなら僧の答えは100点だが、そうでなければ聞かれてもいないことに答えているのである。無私の心に徹していたならばそのような答え方はなかったはずだ。

僧はおそらく、自己究明ではなく不動心の方に価値を置いて坐禅していたのだろう。

 

(参考 ==> 「公案インデックス」

 

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